花筏の初恋 03


「絶対に、許せません!」
 だん、とテーブルを叩いた拳は、力強く握りしめられていた。牛丼屋に思わず響いたその音に振り返った店員を、草薙俊平はにこやかな営業スマイルで誤魔化した。それを知ってか知らずか――いや、確実に後者なのだが、草薙の隣に座る内海薫は宙を睨み付けたままである。

「いや、あのな。内海、ここは俺の奢りにしてやるから。な? 落ち着けよ」
「そういう問題じゃないんです! こう……人間として、ですね! 私は言いたいんですよ!」
 どんどんヒートアップする内海は、店員に「生卵とお味噌汁も下さい!」と吠えている。その横で、「いやだから俺の奢りになるんだけれど、」という草薙の呟きは内海に届くことはない。

「あいつに人間性とか、人間性を求めることがそもそもの間違いだろ」
「それはそうなんですが……あの性格、何とかならないんですか」
 それぞれに届いた並盛り、内海にはさらに生卵と味噌汁は温かそうな湯気で二人を待っていた。卵を溶き始めた内海はその動作に真剣なのか、口を閉じる。同時に、二人の会話も一時中断になる。それを横で眺めながら、「――で、」と草薙は話の続きを促した。

 上手い具合に牛丼に卵を流し入れる事が出来たのだろう、それだけで気分が向上した内海は丼に手を伸ばしながら口を窄めた。

「湯川先生、この間なんて被害者の奥さんに向かって酷いことを言うんですよ。失礼というか……普通、通夜もまだの被害者の家族に、その――夫婦生活のことなんて、聞きますか?」
 後半をやたら小声で、内海はちらりと草薙を見上げた。その頬が赤いのはその状況を思い出したからだろう。

「……でも、結局その事件の犯人、その奥さんだったんだろうが」
「それは……。けど、いくら何でも配慮ってものがありません!」
 再びヒートアップしそうな内海を宥め、草薙は話の方向転換を図る。

「それはそうと、最近、あいつと随分出掛けてるらしいな? 休日、とか」
「ああ、あれは湯川先生が来い、って言うから……むしろ、あたしは足になってますが」
「………ああそう」 これは駄目だ。もはや草薙は話の半分以上の興味を失って、目の前の牛丼にようやく手をつける。既に湯気も冷め、汁がご飯に染み込みすぎて何とも言えない食感になっていた。
 最近、手のかかる機械人間だと思っていた親友が、この隣でぶつぶつ文句を垂れている後輩を、どうやら気になっているらしいという情報が手に入った。もちろん、それを推察したのは自他共に認める美人監察医で、ほぼ無理矢理連れ出された飲みの場で「……で、実際の所はどうなの?」と訊かれても、草薙に答えられる訳もない。

 むしろ、ようやく本人が自覚したか、と嬉し涙がちょちょぎれそうになったものだが、内海の返事を聞く限りでは親友の想いは当然、届いていないらしい。あれだけ女の事には、互角を張れるほどの経験を持っているはずなのに(ちなみに此処は内海には絶対のオフレコだ)、どうしてこうも自分の事には疎いのか。それだけで草薙のニコチン摂取量は倍量と化しそうなものだが、直接伝えてやったところで上手くいく二人ではない。

 というより。草薙の、言葉に出来ない溢れそうな気持ちを押し込める目は、隣の内海に投げかけられる。

 久々に時間が出来たから、昼でも一緒に食べないかと誘ってみれば、さっきから親友の話ばかり。内海にだって、湯川は“ただの事件協力者”だけではない筈なのに、何故気づかないものか。ああ、苛々する。

「草薙さん、あまり減ってませんけど……もしかしてお腹空いてないんですか?」
「空いてる。空いてるよ」 むしろ胸がいっぱいで、とは草薙は言えなかった。


「草薙さん。これからどうされるんですか?」
 その口調から、近くなら送っていきましょうか、との内海の意図が伺えた。携帯を確認すると、相棒に任せた案件の結果がそろそろ出る頃合いだった。もうすぐ連絡が来るだろう。

「本店の奴からの連絡待ちだな。内海は? ああ、湯川の所か」

「う……何で分かったんですか」 苦々しそうな顔をしてりゃあ、誰でも分かる。思わずそう突っ込みそうになって、草薙は軽く咳払いする。
「まあ、あいつにも宜しく言っといてくれよ。今度飲みにでも行くかな……ああ、それから内海」

 駐車場に向かおうとしていた内海がのんびりと振り返る。「はい? 何ですか?」
「お前、いい加減気づいてやれよ」

 自分の気持ちと、湯川の想いと。歯痒さだけが、心の中に積もっていく。そうして、すれ違ったままの二人を見るのだけは絶対に嫌だった。まだ分かっていないらしい内海に、「何でもないよ」と苦笑して手を振ると、ようやく彼女らしい笑顔を見せてくれた。



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