花筏の初恋 02


「あの、すみません。先生、今日の授業のことで……あれ?」
 入り口から聞こえたくぐもった声に、咲は視線をそちらへと向けた。

 まだ一年生だろう。幼さが若干残ったその風貌と、手にした教科書の柄から咲はそう推察した。何より、この研究室の主である皐月は一年と三年の授業しか担当していない。仕事の手を止め、部屋を見渡している生徒へと足を向ける。どうも、と軽く会釈するところは、好感が持てた。

「すみません、皐月先生は」
「今は外出中ですが……ちょっとすみません」
 入り口に立つ生徒を下がらせ、扉の横にかかっているボードを見た。皐月を表す深緑色のマグネットは、在室、を指していた。もちろん、臙脂色のマグネットの咲も在室、である。
 それを確認してから、咲はもう一度生徒を見た。

「ごめんなさい。先生は今いらっしゃらないの、急な質問でしょうか」
「いえ……じゃあ、次の授業の時でもいいです。失礼しました」
 廊下の奥で、生徒の名前だろうか、彼を呼ぶ声がする。「今行くよ!」

 一度そちらに声をかけてから、生徒は再び咲に振り返った。失礼しました、と再び頭を下げて去っていく。その後ろ姿を見て、素直な人なのだという漠然とした感想を持った。

 それにしても。

 咲は本人が其処にいるかのように、深緑色のマグネットを睨み付けた。咲が普段いるのは研究室で、皐月は研究室と准教授室を往復する一日を過ごしている。先程の学生も、准教授室に皐月がいなかったら、研究室の方に声をかけてきたのだろう。

 試験問題を作らなければならない、とあれだけ言い含めておいたのに。どうやら逃げたらしい。

 一度研究室の中に戻り、ヒーターを最弱モードに落とし、パソコンに表示されていたデータを保存し終えてからスリープモードにする。白衣の上からコートを羽織った咲は扉の鍵を閉めた。

 この作業は徹底しており、根底には大失敗の経験がある。咲はともかく、皐月はずぼらというかとにかく大雑把な人間で、こまめに記録を保存したりなどはしない。そのため、以前ふらりと散歩に行っている間に機器のショートが原因で論文のデータが半分以上吹っ飛んだことがあった。不幸中の幸いにも、実験のデータ自体は手書きでも残していたので事無きを得たが、それ以降咲はデータ保存に並々ならぬ警戒心を抱いていた。
 が、それが肝心の皐月に伝わっているのか、と言えば答えは明白である。
「まったく、もう」
 パンプスの踵を甲高く鳴らして、咲は階段を駆け下りた。



「やっぱり、此処にいらっしゃったんですか」
 後ろから怒ったような声が聞こえて、皐月は苦笑と共に振り返った。

「君が珍しくこれのことを話したからね。何だか、見に来たくなったんだ」
「そういう台詞は、きちんと仕事を片付けてからなさってください」
「おや、誰か来たのかい?」
「ええ。先程、一年生の方が」 それは悪いことをした、と呟く皐月の声音は、申し訳なさは一切漂っていない。
 白衣のまま其処に立っている皐月に、咲はマフラーを手渡した。謝辞の言葉と共に受け取った皐月は、それを慣れた手つきで首に巻き付ける。その動作をぼんやりと見ながら、咲は目の前の木へと視線をずらす。

「まだ……持っていらっしゃったんですね」
「ああ、マフラーかい? そりゃあ、君からの数少ないプレゼントだからね」
 愛用してるよ、と笑いながら、皐月はマフラーを撫でつけた。そうですか、という咲の素っ気ない返答も気にしてはいない。

 しばらく、それを二人で黙って見上げていた。皐月はどんな想いでこれを見つけてきたのだろう。

 唐突に皐月がこれを持ち帰ってきた日のことを思い出した。今では態を潜めたが、皐月の放浪癖にまだ咲が慣れていなかった頃、旅から帰ってきた皐月が「運命の出会いだよ」と連れてきたのがこれだ。何日も連絡の途絶えた皐月を、咲は咲なりに心配したというのに飄々としたその笑顔を見せたときは、思わず咲も怒りを顕わにした。もう二度と失踪するな、と言い含め、現在に至る。

 皐月にとっての、運命の出会い。それが何を示すのか――咲は、どうしても知りたくなった。だが、それを口に出すのはどうしても怖くて、ただ唇を噛みしめた。歯痒さだけが心の中を過ぎていく。

 咲かなければ、

「……いいのに」
「え?」 咲の呟きが聞こえたのか、皐月が振り返った。「何か言ったかい?」
「いえ、何も」
 微笑みながら、咲は泣きそうになった。

 咲かなければいい。そのまま、永遠に開かぬ蕾のまま小さな死を迎えればいい。

 そうすれば、この穏やかで優しいモラトリアムの中で、生き延びられるのに。



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