花筏の初恋 00


 扉を開けると、一面の暗闇が彼らを迎え入れた。
 人の気配すら感じられない構内に二つの足音が響く。校門は既に締め切られていたので、裏門にその足音は向かう。その響きには慣れが見受けられ、流れるような動作で影は移動する。
 裏門に設置されている深夜勤務の警備員が、軽く頭を下げてきたので挨拶をした。
 おそらく、「またこの二人が最後だ」と思っているのだろう。
 それほど彼らが遅くまで居残るのは、日常的なことだったから。
 彼女は、冬の空気が好きだった。すっと吸い込むと、少しだけ鼻が痛くなるような冬の空気が。
 何処までも澄んでいて、張り詰めていて、しかし冷たいだけではないこの空気が。
 ひんやりとした闇夜に一際目立つ月を見上げながら、彼女は半歩後ろを歩く男を振り返った。
「ねえ、先生。焼き芋食べます?」
「焼き芋?」 首を傾げた男に、彼女は人差し指を彼方へと向けた。「ああ……石焼き芋か」
 少し外れた処に、一台のトラックが停まっていた。忙しそうに年配の男が動いているのが見えた。
 軽く首肯した男は穏やかな苦笑を浮かべていて、もちろん彼女が食べたいから付き合おうとしているのは丸分かりだった。それでも彼女は楽しそうに焼き芋売りへと向かっていった。その足取りは、堅実な彼女にしては随分と軽やかなもので、それが男にとっても嬉しかった。
 彼女が戻ってくるまで、男は其処に立っていた。こうして闇を怖れなくなったのはいつからだっただろうか。眠ることない夜を幾度も過ごしてきて、明けることない悪夢から逃げ続け。そうして彼女と出会い、闇にいても怖くないと、前を向いて入れるようになった。彼女と何でもない時間を過ごすことが、彼を唯一全てから解き放ってくれる時間だった。
 此方を振り返った彼女は、男がまだ其処に立ち尽くしていたことに不思議そうな表情を浮かべた。
「先生? どうかされたのですか?」
「いいや、ちょっと考え事をね」 そうですか、と頷いた彼女は「バターと蜂蜜、どちらにしますか?」と続けて尋ねてきた。聞き慣れない単語に、男はきょとんとする。
「バター? ハチミツ?」
「今の焼き芋はレパートリーが多いですね。面白そうなので、別の種類にしてみました」
「……あくまで、普通の焼き芋はないわけだね」 どちらでも、と答えると彼女はバターを差し出してきた。ふわりと漂う香りは、確かにバターのものだ。
「科学者は常に探究心を忘れるべからず、ですよ」
「基礎の姿勢を疎かにしないこともまた重要だよ」
 分かりました、と諦めたように彼女は会話を終了させた。束の間の静寂に、焼き芋の熱さが掌に蘇ってきて男は焼き芋を食べることに集中した。
「先生、ルークをBの4へ」
「いきなりかい? ええと、ちょっと待って、何処で中断していたかを思い出すから」
「駄目です。10、9、8……」
 突如カウントし始めた彼女に、慌てて男は答える。「ビショップをDの7!」
 ぱあ、と彼女の顔に笑顔が浮かんだ。普段の彼女にしてみれば、レア級な笑顔だった。それが暗闇の中で、少しの街灯でしか見えなかったことがとても残念だったけれど。
「先生、もしかしてビショップとナイトの場所を逆に覚えていたでしょう?」
「え?」 彼女は勝ち誇ったような表情で言い切った。「キングをCの6へ。先生、チェックメイトです」
「本気でやって、先生に勝てたのなんて初めてじゃないかしら。───私、負けず嫌いなんです」
 男の表情は冴えない。いい歳をしている筈なのに、拗ねたようなその顔は幼さを漂わせている。「そんなの本気だなんて言わないよ。不意打ちじゃないか」
「それもまた作戦の一つですよ。戦士たる者、常に奇襲には備えておかなれば」
「戦士……って、あのね」 溜息が白い息となって吐き出される。あーあ、と唸って男は天を仰いだ。
「全く、君は手厳しくなっちゃったね」
「先生は私がもっとか弱くて保護欲の湧くような子だったら良かったですか?」
 彼女の意地悪そうな、それでも読めない何かが渦巻く瞳から何故か逃げるようにして、男は首を振る。「質問の意図がイマイチ分からないけど。そう、いや……そうしたら君の大前提が根本から覆される、という事になるからね。そうしたら本当に僕には手も足も出せない。──ま、要らぬ心配が増えないようになるっていう事だけが、唯一のメリットなのかな」
「それは、話の趣旨がずれています。質問の答えにはなっていません」
 拗ねたような彼女の台詞に、男は本当に今が夜であることを残念に思った。こんなに人間っぽさを出す彼女は今まで見たことがなったからだ。そして、いつもこうであったら良かったのに、と口には出さず呟く。
 仰いだまま数歩歩くと、真白に冴える月が視界に入った。「……今日は砂糖をこぼしたな」
 彼女は男につられる様に空を見上げ    「また、そのお話ですか」 眉をしかめた。
 人間らしさがよく出ていても、やはり思考回路は彼女だ。そのことが何故か男に一抹の安心をもたらした。男がよく口にする、所謂御伽話というものが彼女にはどうしても理解できないらしい。
 しばらく歩くと、大通りに出た。ここから男は右へ、彼女は左へと帰る。
「じゃあ、僕は此方だから。さようなら」
 男の穏やかな表情を、彼女は無意識に見つめていた。刻み付けるように。それでもそれは一瞬のことで、すぐに瞳は軽く伏せられる。 「はい、さようなら」
 いつもと同じ場所で、いつもと同じ台詞で別れる。
 明日も明後日もその先もずっとそれが続くのだと疑うこともないままに。
 そんな安寧の日々が続く筈がないのだと、本当は、誰よりも深く知っていたのに。
  


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