花筏の初恋 01


 低い唸り声が響いている。それはモーターを回し続け、目的物質の濾過を繰り返していた。それらに一切の隙さえも見逃さないような視線が送られる。片手にペンを持て余し、機械が止まるのを待っていた苅田咲はふと外に目を向けた。
 いつもの彼女であれば、一分一秒の狂いもなく実験から目を離そうとはしないのだが、彼女の意識はふわふわと漂っていた。

 ペンと一緒に持っていたボードを机の上に置き、彼女の足は窓へと向かう。暖房で温められた室内と、変わらず冷たい風が吹き荒れる外には相当の温度差が働いているのだろう、曇りかけた窓にぺたりと掌を張り付ける。急に神経に走った冷たさも気にすることなく、咲の視線は目の前のものに真っ直ぐと向けられていた。

 ここ数年一度として見かけることのなかった白い蕾が、枝の先で揺れている。
 眼下を甲高い声を上げながら歩いて行く女子大生たちは、それに一切の目を向けない。興味のある対象ではないのだろう。それはそうだ、こんな北風強い日にわざわざ上を見上げようなどとはしないだろうから。

(咲くだろうか)
 今年は、その小さな花弁を。未だ、此処では見せたことのない、それを。

 それが何を意味するかを、彼女は知っている。無意識に、指先に力を入れていたらしい。爪が真っ白になっていて、彼女は引き剥がすようにそれから視線を逸らした。研究室では、相変わらず機械が動き続けていた。

(咲くのだろうか)
 咲はふう、と息を吐いて目を閉じた。何も考えずに眠りたくなった。

 だが、いつまでも耳の奥に低い唸り声がこびり付いていて、結局眠ることなど出来なかった。



「咲くでしょうか」
 そう呟いた咲を、皐月蓮は若干上目遣いに見上げた。

 目の前に座った彼女の前にはカレーライスが置かれているが、彼女の意識からは外されているらしい。一切の手をつけようとはせず、外を見ている彼女はぼんやりとしていた。彼女の視線を辿り、皐月はようやく何を指していたのかを悟った。

「ああ……どうだろうね。今年か来年には咲くと思うんだけど」
 一心不乱、という言葉が似合いそうな程に真剣に卵を溶く皐月に、咲はようやく呆れたような視線を向けた。

「先生は、普段そうは見えないのに急に科学者っぽくなられるのですね」

「何だか随分棘がある言い方だね。まあいいけど」
 完璧、と満足そうにご飯の上に溶き卵を流し込んでいく。いただきます、と丁寧に手を合わせると自分の昼食を思い出したのだろう、咲もスプーンに手を伸ばした。咲は辛い食べ物が苦手で、カレーを一口食べては水を二口飲んでいる。以前食べさせてもらったのだが、此処のカレーはむしろ甘いと皐月は思っていた。

「そんなに辛いなら他の料理を食べればいいのに」

「人間は無意識に習慣の中で生きている生き物です」
「ああそうですか」
 成程、確かに此処で彼女と共に食事をとると、必ずと言っていいほどこの組み合わせである。

 こくこくと数度頷きながら、皐月は唐揚げを口に入れた。

 咲はカレーライス、皐月はAランチ。ちなみに卵はこのセットには含まれておらず、裏メニューとして皐月専用につけてもらえるものだ。大方、丼料理などの余りを頂いているのだろう。

 咲は辛いのは苦手な筈なのに、食べるのだけは早い。今も、あと数口のところまで来ているのを見て、慌てて皐月は自分のご飯をかきこんだ。

「慌てなくても置いては行きませんから、ゆっくり食べてください」
 まるで保護者のようだ、と皐月は思う。いや、傍から見るとまさにそんな間柄になってしまうのだが。全く、どちらが上司なのか分かったものではない。

 歳に似合わず湯呑を手にする姿は慣れたものだ。掌の中で弄びながら、咲は再び外へと目を向けた。

「珍しいね、君が世間事に興味を示すなんて」
 その返答は眉間の皺をも連れてきた。「先生が私をどう思っていらっしゃるのか、ようく分かりました」

「ああいや、そういう訳ではなくて」
「結構です。先生の思考回路は、熟知しているつもりですから」
 にべもなく言い捨てられ、皐月は苦笑しながら話の転換を図った。

「それにしても、今日は空いているね」 彼の視線は学食を見渡す。いつもならば、この時間はまだ戯れたり、話に花を咲かせる生徒で溢れているというのに。
 だが、何でもないことのように咲の答えは淡々としていた。

「もうすぐ学年末試験ですから」
「ああ……それで。そういえば、事務課から早く試験問題を作れって催促が来てたなぁ」
 口に出して失敗した、と皐月は思った。が、それは既に遅かった。

「……聞いて、おりませんが?」 彼女のこういう時の微笑みほど、怖いものはないと皐月は思う。
「言って、ないですから」
「そうですか。ならば、論文を相手に進まないといじける前に、試験問題を作らなければならないという義務があることをお分かりですか?」
 容赦ない声に、皐月は大して噛んでもいない唐揚げを飲み込む羽目になった。食道が悲鳴をあげているのを無視して、小さく小さく「はい」と呟いた。

 どうやら、今日も遅くまで残ることになりそうだ。


 


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