tutti  ecossaise


 
 明日から俺たちの挑戦、音楽の祭典「tutti」が始まる。
 故に広報・事務担当の俺は忙しい筈なんだが、同時に演奏者なので日々時間に追われる生活を送っている。
 とはいえ、何よりも妥協を許さない鬼指揮者の合図の下、今日も俺は一人叱られる。
 ……でもさぁ、千秋。今日は何かいつもより苛々してねぇ?

 いくら留学組や、Sオケ時代からつるんでる奴らがいるからといって、全く千秋と顔を合わせたことがない奴だっている。風の噂程度に「鬼指揮者」だと刷り込みを続けてきたが、ここにきて顔面蒼白なようだ。そりゃそうだ、練習中の千秋が一番怖い。…いや、恐ろしい。
 カッと目を見開いた千秋の視線がこっちに来る。…あ、もしかしてまた俺?
「峰! ぼけっとしてんな、出だしズレてんぞ!」
 おー、大事な指揮棒さえも飛ばしてきそうな程、千秋は機嫌が悪いらしい。うん、その理由は何となく分かるぞ。
 午前中は松田さん、午後から千秋の予定で俺達はやや無茶な練習を続けている。松田さんとは前から合わせてるんだから、無理して時間を取らなくてもいいような気がするんだが…。ま、あれだろ。千秋への嫌がらせ。俺達使ってするっていうのが、何とも松田さんらしいけど。
「なー、千秋。お前、何でそんなにイラついてんだよ」
 俺への怒りを放ったところで休憩が出た。ぴく、と反応した千秋は「別に」と簡潔に答えた。「別に」。つまりは、イラついているっていうことだよな?
 そういえば、と萌の声がする。
「千秋様、のだめちゃん…今日は来ないんですか?」
 ぴく。
「そういえば朝から見てないわね…あの小娘。またピアノ弾いてるのかしら?」
 ぴくぴく。
「ねぇ、龍。あんた、何か知らないの?」
 ぴくぴくぴく。
 ……いや、待てよ。何で段々千秋の怒りのオーラが俺に向かってくるんだ? 千秋が知らないことを、俺が知ってる筈ないだろ? っていうか、やっぱり千秋の不機嫌な理由はのだめか?
 次に誰かが何か言いそうなものなら、すぐさま俺に指揮棒が飛んできそうな雰囲気の中、オケの中で唯一の俺の味方が千秋に近づいた。
「……千秋君、恵ちゃんから何か聞いてないの?」
 オケが少しざわつき始める。二人の話が聞き取りづらかったので、指揮台に向かった。真澄ちゃんもついてくる。
「いや…朝も普通だったんだけど」
「へー、朝から一緒だったのか?お前ら」
「―――黙れ、峰」
「ピアノのことで詰まってる、とか?」
「コンクール前にホタル化してることはたまにあるけど、今回は普通みたいだから」
「明日から本番だし、張り切ってるんじゃないんですか? あの子」
「……ちょっと過敏になり過ぎかな、とは思ってるんだけど」
 そう言いながら千秋は携帯を取り出す。随分と慣れた手付きで相手の番号を呼び出し、己の耳に当てる。微かに聞こえるコール音の後に響いたのは留守を告げる機会音だった。
「夢中になったら携帯を放り出す癖も相変わらずだな……どうせ、充電切れてるんだろうけど」
「どうするの? 練習室、行ってみる?」
 くろきんの提案に、しばし思案顔になった後、千秋は「いや」とタクトを手に取った。
「休憩終了だ。……練習、続けるぞ」
 少し千秋を見つめていたくろきんは、「分かった」と自分席に戻る。
「え…いいのか? 千秋?」
「練習は練習だ。俺だって今時間が惜しいんだよ」
 それに、と千秋は総譜を睨み付けるように見る。
「…俺はプロだ。他のことで音楽に手がつけられないなんて事はあってはならない。妥協は、しない」

―――のだめ」
 先輩の声がするまで、先輩が後ろにいることに気づいてなかった。それだけ没頭してたのか、はたまた真逆の状態だったのか。それを心の奥に押し込めて、笑顔で振り返った。
「むきゃ! 千秋先輩、練習終わったんデスカ?」
「…ああ。これから帰るつもりだけど、飯食いに行くか?」
「うっきゃ――――!!! 行きます、すぐに片付けマスから待ってて下さいね!」
 先輩に、朝以来会ってなかったから純粋に嬉しかった。だから、もやもやしてるものは今は忘れようと思った。
 先輩が向かっているのは裏軒の方向。「裏軒に行くんデスか?」って聞いたら「そう」と、あっさり返された。むむむ…珍しいデスね、先輩から裏軒に行こうだなんて。でも、日本に帰って来てからまだ足を向けてなかったから久しぶりに峰パパに会えるって楽しみだった。
「いらっしゃいませー…のだめちゃん!」
「お久しぶりデス〜峰パパ! ………え?」
 元気良く駆け込んだ店内にいたのは、懐かしい人々。中華料理店なのに、ワインを片手に手を振っている清良サンや、もうすでに出来上がっちゃってる峰くん。同じように先輩の登場にテンションが最高潮の真澄ちゃん、日本酒を飲みながら優しい笑みを浮かべている黒木くん。他にも、R☆Sの皆がいる。裏件は、大宴会場となっていた。思わず、後ろにいる先輩を振り返る。
「……皆がお前に会いたいっていうから」
 やや照れた表情で目を逸らしながら答える先輩。ああ、そうか。のだめの様子に気づいてるんですね?だから、皆も心配して……のだめ、まだまだデスねぇ。思わず苦笑してしまう。
「…ありがとデス、先輩」
「いやー、愛だねぇ!」
「うるせぇ、峰! 黙れ!」
 その後は大いなる無礼講となった。終始先輩は絡んでくる峰くんに怒鳴ってて、まるで大学時代に戻ったようだった。

「……のだめ」
「ハイ?」
 振り返ると真面目な顔をした先輩がいた。……誤魔化せない。そんな、気がした。それでも敢えて笑顔を崩さないで答えてみる。はぁ、とため息をついた先輩は私の頭をがしがしと撫でる。宴会の後、私と先輩は星空の下を歩いていた。
「お前、いつもよりピアノに敏感になりすぎてるぞ? どうした?」
 ほらね。やっぱり気づいてる。
「何でもないデスよ〜ちょっと、納得いかない所があるだけデス」
「のだめ」
 かわそうとした追及に捉まってしまう。あのな、と先輩は眉を寄せた。
「…焦るな。お前の音楽、好きだから…楽しみにしてるから。お前らしさが出るなら、お前が楽しめるならいいと思うから」
「ハイ。ありがと、デス」
 帰るぞ、と先輩が歩き出す。はーい、と元気良く返事をして先輩の後を追った。

 ……でもね、先輩。
 ピアノが問題じゃないような気がするんですよ。ピアノは、ちゃんと私に応えてくれてる。でも、何ていうか……分からないんです。何がいけないのかも、何が問題あるのかも。それを見つけてからじゃないと……、駄目な気がするんです。
 だからね、先輩。ごめんなさい。今だけは、嘘をつかせて。すぐに、いつもの「のだめ」に戻るから。



 
ecossaise … 二拍子の曲。
”不安”を抱え、何処か生き急いでいる感じののだめ。
 


 

 
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