慎ましく、心して俺様の奏でる演奏を聴けよ。
朝からそんな電話で起こされた先輩の機嫌は、はっきり言ってものすごく悪かった。
それとは正反対な晴天の下、R☆S主催クラシック・コンサート「tutti」は幕を開けることになった。
コンサート一日目は、松田さんの演奏するR☆S日本組から始まる。
どうやら、寄付には桃ヶ丘だけじゃなくて三善のお家も関わってるみたい。R☆Sだけじゃなくて、声楽や音楽に関する全ての人達が関わっているこのコンサート。ワクワクする。立っているだけで、いろんな音が聞こえる。
―――『音』が。
「のだめ、そろそろ行くぞ」
今日は徹底して「観客」でいることを決め込んだ先輩は、チケットを片手に私を振り返った。
「あ、ハイです」
「ったく、朝っぱらから起こしやがって……それなりの演奏を聞かせなかったらどうしてくれよう」
いつもより眉間に皺の寄った先輩。思わず笑ってしまう。
「先輩。今日は、『観客』、でしょ?」
「今日は『先輩』じゃないだろ」
勢いに任せて言い切った、という感じで先輩――真一くんがのだめを覗き込む。いきなり近づいた端正な顔に頬が熱くなるのを感じながら、小さく呼んでみた。
「……真一、くん?」
「ん。――行くぞ」
満足げに、手を繋いだ真一くんの耳はちょっと赤かった。
全て完売したというチケット情報通り、客席はもう人で埋まってた。峰くんにもらった一番良い席に座る。それまであまり曲目を気にしていなかった私は真一君からパンフレットをもらう。
「ボヘミア組曲と…ほおぉ、ボレロですか! ―――でも、松田さんにしては珍しい組み合わせデスね?」
「……普段やらないよーな曲にしたんだと。あの人なら、もっと派手な曲にするだろうに」
「まぁ……そうデスけど」
のだめが苦笑したところで、フッと暗闇がやってくる。観客としてこの席に座っていても、どこか緊張してしまう。隣の真一くんは無意識下で、「音楽家」としての目になってる。…今日一日は観客でいる、って豪語したのは誰デスか?
暗闇のまま、松田さんが現れる。…何かの演出でしょうか?真一くんを覗き込むと、ちょっと呆れた様な横顔を覗くことが出来た。
―――「ボレロ」。モーリス・ラヴェルによって作曲されたバレエ音楽。
イサーク・アルベニスのピアノ曲集「イベリア」をオーケストラ編曲しようとしたラヴェルが、それを止め一から書き起こした15分程度の曲。
暗闇の中、ドラムのリズムが刻み始める。
最初からほぼ最後まで同じリズムが繰り返され、一つのクレッシェンドで表記されている総譜は何ともすっきりした印象を与える。軽やかなリズムに乗って響くフルートの細い旋律。
セビリアのとある酒場で足慣らしをしていた一人の踊り子が興がのってきたことで徐々に振りが大きくなっていく。その様に、初めは踊りに目も向けなかった客たちも次第に目を惹かれ、最後は皆が共に踊りだすボレロ。その踊り子のステップを表すが如く、フルートはメロディを奏でる。
ボレロに用いられるメロディは二つしかない。それを繰り返しながら、フルートはドラムと同じリズムを刻み始め、次いで表舞台にはクラリネットが現れる。更にバスーン、再びクラリネット、オーボエ、フルートとトランペット……次々に異なった楽器編成で曲は紡がれていく。
極めて単調な曲のように思えるが、その反面腕次第で非常に豊かな表情を見せることが出来る。また、単調であるが故に間違いやふとした揺れも目立ってしまうために予想以上に気を配らなければならない。
「………すごい、デス」
思わず呟いていた。小さく、そうだな、と答える声が耳を通り抜けていく。
控えめであるかのような曲調の中に、ふと目を見張るような瞬間がいくつも隠されている。その度に驚かされ、目が離せなくなる。酒場の客のように、惹かれ、浸かり、巻き込まれていく。軽やかなステップ、優雅に舞う踊り子の服の裾。風を読んでいるかのような、その軌跡。
―――捕まる。松田さんの、『音』に。
ボレロの最終部分はオケ全体の大編成による最初の単独のメロディが奏でられる。圧倒的な重みと厚さ、そして深さで二つのメロディが溶け合うと、曲調はそこで初めて基本に忠実なメロディを離れ新たな旋律へと移る。迫力も、気分も最高潮で迎えた直後、最後の二小節で下降調のコーダでオケは収束し、―――終焉を迎える。
言葉を交わさなくても体中で感じる。……また、進化したR☆S。成長を止める事のないオケ。身震いがする。足の先から髪の毛一本まで、自分のものじゃないみたいだ。…これが、音楽と溶け込む。大きな拍手の中、余韻に浸るように目を閉じていたら右手に温かいぬくもりを感じた。目を閉じたまま、ゆっくりと指先を絡める。未だ踊りのステップの中を迷い込んでいるような感覚。……ああ、いつだったかのだめとワルツを踊ったんだっけ? 俺は覚えてないけど。
のだめとそんな時間を共有している。それが、何よりも安心する。喜びを感じる。
再び振り下ろされた松田さんの指は新たな音を切り開く。
―――ドヴォルザークの、全五楽章で構成される「チェコ(ボヘミア)組曲ニ長調 Op.39」。
のんびりとした田舎の村の雄大な自然や人々に溢れる活気な町並を描く前半部、素朴ながらもボヘミアを愛した彼の温かさに包まれた曲調。そして演奏は不安や期待の入り混じったドラマティックなフィナーレを迎える。鋭いアクセントを伴って二拍子と三拍子が交錯する熱狂的な音色。「新世界」を匂わせる、交響曲にも匹敵するであろうダイナミックなスケール。
気づいたら手が痛くなるほど、拍手をしていた。
―――ジジイ程じゃないけど。
皆の楽屋に向かう途中、ちょっと顔を赤らめて真一くんがぽつりと呟く。
―――あの人も魔法使いだと思った。……俺は、あんな演奏出来ない、まだ。
でもいつか絶対、俺もあんな演奏してみせる。もっと勉強しなくちゃな…ゴールデンペアのためにも?
決意を新たにいつもの俺様な笑みを浮かべる真一くんが、すごく格好良くて……ちょっとだけ、遠い人に思えた。
そんな真一くんが楽屋で散々松田さんにからかわれて遊ばれるのは、これから15分後のこと。
…明日は真一くんの番。気づいたら、手が痛くなるほど自分の手を、握り締めていた。