どこまでも暗い世界にぽっかりと開いた穴。それを埋めようと私はもがく。
その術さえ知らないのに。
助けを求めたくて、でも言葉は出てこなくて。あぁ、何だか『音』が聞こえないですね…。
先輩、のだめの『音』は―――ピアノは、どこに行っちゃったんでしょう…?
演奏前の、自分を高める静かな時間が好きだ。心の中の糸を少しずつ張り詰めていく感覚。
己の音楽に、没頭する時間。……いつもなら。
「峰! うるせぇ、少し黙れよ!」
「あー?! これが俺の普通なんだよ!」
何故かR☆S全員での控え室に、千秋と峰の怒鳴り声が響く。「狭っくるしいのによくやるわね」と呟く清良の隣で黙々とリードの調節をする黒木が、思わぬ来訪者に気づいた。
「あれ…恵ちゃん?」
「―――え? のだめ?」
峰にタイを投げつけていた千秋は反射的に振り向く。ドアに半分体を隠しながら笑うのだめがいた。
開演前から来るなんてバカップルだなぁと叫んだ峰を瞬殺し、とりあえずメンバーの横を通り過ぎてのだめの元へと向かう。
「どうした? いつもなら終わってから来るだろ?」
何かあったのだろうか。そう語る千秋の目に再び笑い、のだめは「何でもないデスよ?」と千秋の両手を取った。
「のだめ?」
「……オマジナイ、デス」
ピアニストの大きくて温かいのだめの手が千秋を包み込む。そのまま、のだめは額にくっつけた。最初はふざけていたメンバーも、しん…と静まり返る。きゅ、と力を入れてからのだめの口が開いた。
「真一くんの指は魔法のタクト」
―――祈る。どうか、皆で一つの音楽を築けますように。
「真一君の音楽は、水面を滑る風」
―――願う。今出来る、最高に楽しい音楽の時間を過ごせますように。
「真一くんの音楽は、皆を優しく包む陽だまり」
―――そして、どうか『そこ』に私もいられますように。
「……真一くんの音楽を、のだめに届けてくだサイ?」
しっかりとお互いの目を見つめて言い切る。千秋は軽く目を見開いた後、穏やかに笑った。それは、彼が仲間には見せたことはないもの。のだめだからこそ引き出すことが出来る、千秋の本当の顔。
「…うん。俺の音、ちゃんと聞いてろよ」
「はいデス」
お邪魔しちゃってすみませんデシタ、とのだめは早々に客席に戻っていった。その背を最後まで見届ける千秋に、峰がぽつりと言う。
「……見せ付けてくれるよな」
「…………オマジナイらしいし?」
敢えて、不敵に笑ってみせる。見回した皆の顔は、すごく輝いて見える。これから共有する時間を、期待している顔。自分の全力をぶつけてやろうという顔。さてと、と峰が立ち上がった。弓を肩に乗せて、千秋と同じように不敵に笑う。
「―――やってやるか」
「そうだな。……楽しい、音楽の時間だ」
……全く。オマジナイ効果絶大だよ、のだめ。
照明が落ちると、チューニングの音が会場に響き渡る。この、緊張感が高まる静かな時間が好き。
そっと目を閉じる。
大きな拍手の後、堂々とした姿で出てきた真一くん。客席に向けて一度頭を下げると、いつも真っ直ぐのだめを見つけてくれる。それが、すごく嬉しい。
真一くんの背中は大きい。それが、彼の自信を表しているから。決して揺るがない心。
さぁ、歌おう。最高の楽しい音楽の時間を。
ふ、と音もなく真一くんの手が上がる。その先にある、真一くんの音楽を紡ぐ魔法のタクト。
「―――」
それは、一瞬。
彼が指揮棒を振り下ろすと、静かだった水面に『音』という名の水滴が落ちる。
これが。…これが、真一くんの奏でる風。水面をどこまでも走る、一筋の風。
また、一歩成長している真一くんの音楽が、会場を飲み込んでいくのが分かる。
音の波紋は幾重にも私を『音』の世界へと引きずり込む。―――抜け出せない。
私はどこまでも暗闇に落ちていく。手のひらから『音』がこぼれていく。
パタリ、と何かが手の甲に当たった。俯いて、ようやく私は自分が泣いていたことに気づく。
真一くんが滲んで見えない。…真一くんはのだめに『音』を届けてくれているのに。のだめには、それを受け止める術が分かりません。
のだめは浮かれてたんですかね。コンクルで優勝して、何度かサロンも開いて。
いつの間にか真一くんと一緒に歩いている気がしていました。でも、あなたはいつも走ってる。私は、まだまだ追いつけてはいなかったんデスね。
そんなのだめにピアノは応えてくれないデスよ。ピアノはのだめを信じてくれているのに。私から手を差し出すことが出来ない。
…あぁ、ねぇ真一くん。さっきまであなたの隣にいれたと思っていたのに。今は、こんなにも遠い。
手が、―――届かないデスよ。