演奏の後の心地よい疲労を感じながら、関係者を呼んでの小規模なパーティに参加していた。
軽く挨拶をして、知り合いと立ち話をして。手に持っていたワインが無くなり、ようやく人の輪から抜け出せた頃、のだめがいないことに気がついた。
……そういえば、公演の後、楽屋には来ていない。
こんな時は一番に張り切って大騒ぎするだろうに。会場内に姿がないことを確認すると、酔い覚ましもかねて会場を抜け出した。
「…のだめー?」
月明かりに照らされた廊下に、誰かが立っている。近寄ると、その人物が振り向いた。
――― 一瞬、本気で酔ったのかと焦った。
「シュトレーゼマン…?! え、な…スイスで客演じゃ…?」
ふふん、甘いデスよ。と聞きたくない声まで聞こえる。幻聴か、とも思ったがやはりジジイはちゃっかり日本の、今この会場内にいた。しょうがないので近くのソファに座る。シュトレーゼマンはどこから持ってきたのか、ワインを片手に月を眺めていた。
「…ま、今日の演奏はなかなかでしたネ。音楽に没頭してマシタ」
「………ありがとうございます」
「ただ、第二主題はもうちょっと勉強デスネー。もっとヴィオラを歌わせた方が、全体がしっとりとなる」
「……はい」
俺も、引っかかっていた所だった。音楽に関しては、この人を尊敬しているから。やっぱり、すごいと思う。
「時にチアキ」
やや目を細めて、何やら掴みきれない表情でシュトレーゼマンが視線を千秋に向ける。いつものおちゃらけた雰囲気を纏っていない彼に、千秋がぴくり、と反応した。
「…のだめチャンは何処デスカ?」
「―――え、あ…のだめ、ですか? 今、俺も探していて…」
「まだ見つけていないんデスカ?」
「………え?」
含みのある言い方に、思わず千秋の眉間に皺が寄る。その言い方だと、彼はのだめの所在を知っているのだろうか。
「私は分かりまセンよ。演奏の後にのだめチャンには会ったケドね」
「のだめに? …それで、のだめはどっちの方向へ?」
すぐにでも立ち上がりそうな千秋に呆れたような視線とため息をこぼし、シュトレーゼマンは「まあ、座りなサイな」と促した。仕方なく、千秋は元いた場所に座る。相変わらずワインを傾けている彼の師は、のんびりした口調で切り出した。
「のだめチャン、泣いてましたよ」
「え?!」
「……『音が聞こえない』と言ってました」
「…………『音』?」
ミルヒー。のだめ…やっぱりベーベちゃんデスね。
『音』が聞こえないの。
ピアノは、きっと今の「のだめ」とは一緒に歌ってくれない。
先輩みたいに、誰かに『音』を届けることは出来ないんデス……。
「なっ…! あなた、のだめを…っ」
「何故そこまで知っていて、彼女を突き放したのか? と思ったデショ。でもネ、千秋」
掴みかかった千秋を鋭い目で見上げる。
「―――それこそ他人に甘えるな、デスヨ」
「!」
やれやれ、とシュトレーゼマンは立ち上がる。逆に、千秋はソファに座り込んだ。
「……チアキ」
のろのろと千秋が視線を上げる。
「私は、前に『分けろ』と言いマシタ。『分ける』とは、すなわち『覚悟を決める』ということ。ただ甘やかして抱きしめて、温かい言葉をあげる訳じゃないんデスよ。チアキが与えたものは、ピアニストとしての野田恵に向けた言葉デスカ? それとも、のだめチャンに対する思いデスカ?」
直感だった。きっとこの子は、千秋にとって大きな「導」になるだろうと。
「チアキを救い上げたのがのだめチャンなのであれば、のだめチャンを救い上げるのもまたチアキ。そうデショ?」
「でも……どうすれば」
「簡単な事デスヨ」
―――音楽には、音楽を。『音』を失くした者には、『音』を届ければいい。
「それにのだめチャンが応えなかったのなら、彼女はそれまでということ。…ただネ、チアキ。その『音』がチアキの音であることが重要。チアキの音にのだめチャンが応えないと、彼女はまた同じ穴に落ちる。彼女は強いようで、本当は何よりも脆い。そして、何よりも自分を恐れている」
そのことに、チアキは気づけていマシタ?
バタバタと走り去る足音が誰もいない廊下に響く。さて、私も戻りますかネ…とシュトレーゼマンはワインを傾けた。
バン!と思っていたよりも大きな音が会場に響く。何事かと入り口に目を向けた人々は固まった。
「…千秋君?! どうしたの、そんなに汗だくで」
「千秋様! お探ししてたんですよ〜……千秋様?」
滴り落ちる汗を拭う事もせず、荒い息を隠そうともせず、千秋はぼんやりと駆け寄ってきたオケのメンバーを見回した。どれも心配そうな顔を浮かべているが、千秋の目には映っていない。
どうする。どうしたらいい。
「―――!」
すぐ近くからヴァイオリンの音がする。思わず目を向けると峰が余興として、即興演奏を行っていた。千秋の視線に気づいたのか、ふと演奏を止めて「千秋? どしたー?」と弓を振る。
ああ、くそ。手段なんか選んでられるか。
「…千秋様? ちょっと、千秋様!」
何も言わず、ズカズカと音が鳴りそうな程乱雑な動きで峰に近づく。え、と固まった峰から千秋はやや強引にヴァイオリンを奪った。
「え…千秋?!」
「峰、ヴァイオリン貸せ」
周りで千秋がヴァイオリンを弾くのか? とギャラリーが集まる。ヴァイオリンを奪われた峰の元に、メンバーが駆けつけた。
「龍!」
「どうしたんだろう…千秋様。いきなり」
「あんなに汗だくで走るところなんて初めて見たわ」
「何かあったのかな」
「―――…いない」
「え? 龍ちゃん?」
ヴァイオリンを持ったまま、俯いている千秋の背をじっと見つめ、峰は小さく呟く。
「のだめが…いない」
は、とメンバーの顔が強張り、千秋に視線が滑る。
「千秋……!」
ホント、ふざんけんじゃねーぞ。のだめ。
…何で泣くんだ。一人で、泣くなよ。頼むから。泣く時は、一緒に舞台の上で拍手をもらう時だろ?
俺様が、ここまでしてやるんだ。…フッたりなんかしたら、承知しねーからな。
あいつが『音』を求めているというのなら。俺は、お前に全力で『音』を届ける。
のだめ、目を背けるんじゃない。
―――お前の『音』で、応えろ。俺の、『音』に。