tutti  dominant


 
 コンサートも三日目、最終日。金を取らない学生の個人による演奏なので、会場は野外に移る。今日も午前は随分高い所まで気温が上がったので、コンサートは夕方からの開演となった。
 黒木くん、菊地くん、高橋と経て、今は特別出演として萌と薫が舞台に立っていた。この間発売されたCDの中に収録されていた、「魅惑のデュエット〜Gから始まるハーモニー」を奏でている。流れるようなメロディの中に超絶技巧に近いものも含まれていて、なかなかに聞き応えがある。

 それを舞台袖で待機しているのだめの横に立って聴いていた。のだめは目を閉じて演奏に聞き入っている。きっと、家に帰ったらまた即興でこの曲を弾き出すんだろう。
「…緊張してんのか?」
「当たり前デスよ!!」
 いつも舞台に立ってる真一くんに比べたらサロンみたいなものでしょうケド!
 つーん、と拗ねたのだめに思わず苦笑する。確かに今日は正式な客演でもないから、普段着なれているシャツにズボンだけ。燕尾服なんて持ってきてもいない。
「昨日はあの後大変でしたね〜」
「…っ、思い出したくもねぇ!」
 昨日、のだめの問題が一段落すると会場は大混乱状態になった。散々R☆S(専ら峰)にからかわれたし、壁を蹴り破ったことで会場の所有者に謝る羽目になったし、客からは「もっと弾け」と催促されたし(俺は指揮者だ!)、ジジイには何も言われない分非常に嫌な笑みをもらった。
 それを思い出したのか、のだめはクスクス笑う。
「ミルヒーが来てたのにはビックリしましたけどね?」
「…全くだ。本気で酔ったかと思った」
「でも、おかげでまた一つ成長出来ましたよ! …あ、同じ分だけ真一くんも成長しちゃったからおあいこなのかなー」
 むー、とのだめがふくれる。
「……置いて行かれそうになってるのは俺なのにな」
「………え?」
 ぽつり、と呟いた千秋の言葉に首をかしげるのだめ。
 舞台では清良がバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第二番 ニ短調」を演奏している。峰に弟子にしてくれ、と頼み込まれたあの曲だ。一番好きなんだ、て照れくさそうに笑って教えてくれたことを思い出す。
 清良を視界に入れたまま、少し困ったような顔をして、千秋は続ける。
「一番最初にのだめの『音』を見付けたのは俺だったのに」

 飛んで、跳ねて、作曲者の意図なんてまるで無視して、己の思うがままに奏でていたのだめのピアノ。
 初めて聴いた時のあの身体中を駆け巡るような感覚はきっと一生忘れられない。
 音楽と、真正面から向き合おうとはしていなかった、のだめのピアノ。
 パリに来てから、格段に成長しているのだめのピアノ。
 ずっと傍で、その成長を見ていけると思っていたのに。
 客演から帰ってくる度に、重みを増して、深さを感じる。
 のだめのピアノが変わっていくのを一番楽しみにしていたのは、紛れもなく自分なのに。
 それでも、彼女の傍でその変化を見守っていることが出来ない。

「いつも帰って来てのだめのピアノを聴く度に、のだめに背中を押されている気分になる」
「……真一くん」
「すぐ後ろに立ってて、今にも追い越しますヨって迫られてる気がするんだよ」
 ……前に、「踏み台になって下サイ」って言われたことがあったけど。もしかしたら、本当にそうなるかもしれないな。
 ───悔しいから、絶対に言ってなんかやらないけど。

「おーい、のだめ! そろそろ出番だぞ!」
 遠くから峰の声が届く。演奏を終えて戻ってきた清良に抱きついて、「うっとおしい!」と捨てられたらしく、やや声に覇気がない。「ハイ、今行きまーす!」と返事をするとのだめは俺に向き直る。敬礼のように額に白い指を添えて、にっこりと笑う。
 ……さっきまで「緊張してる」って言ってたのは誰だ、オイ。何だ、そのめっちゃくちゃ楽しそうな顔は。
「じゃあ、行って来マスね!」
 少し首を傾けたのだめの首元に、いつかのノエルにあげたルビーのネックレスが光っている。それを視界に認めたのと同時に、俺はのだめを抱き寄せてルビーにキスしていた。
「せ、せんぱ…?」
 ああ、俺から迫ると相変わらず顔を真っ赤にして。いつまで経っても慣れないんだから初々しい。それでも、俺も突発的な行動だったから頭がフリーズ状態になってて。
「……無事に成功するための、オマジナイ」
 自分でも苦しい言い訳だと思ったけど。逆に緊張させるよーな事してんじゃねーか、と自分に突っ込んでみたけど。
 それでものだめはやっぱり笑顔で舞台に足を向けた。「頑張りマスね」と気合を残して。

 ―――ずっと傍にいることは出来ないけれど。会う度に変化…いや、進化していくのだめの『音』に
     いつも驚かされるけど。
     それでも、俺にとってもう欠かせないものだから。きっと、空気や水と同じなんだ。
     のだめの音が、のだめが、いないと……きっともう俺は俺の『音』を鳴らせなくなるんだろう。

「見たぞー、千秋」
 背後からの恨みがましい視線と声に、思わず振り返った。涙を溜め込んでいる峰と、別の意味でハンカチ片手に溢れそうな涙を堪えている真澄。ああ、そういえば音大にいた頃は何だかんだ言いながらいつもコイツらと一緒にいたんだよな、と思い出す。コイツらと出会って、一緒に音楽を紡いでいく楽しさを思い出させてくれたのものだめ。……俺、結局あいつには一生頭が上がらないんじゃないだろーか。
「……別に。オマジナイ、だし?」
 ちょっと不敵に笑って開き直ってみると、峰と真澄はちょっと驚いたような顔をしていた。昨日のこともあるし、赤面しながらも一応拒絶はしていない。俺にしては、随分頑張った。

「何か……千秋、変わった?」
「まさか…のだめとの仲を、認めなきゃいけない日が来るなんて…!」
 いや、問題はそこじゃないんだけどな、真澄ちゃん。
 千秋の視線は真っ直ぐ舞台の上ののだめに向けられている。二人の、『絆』の深さを感じさせられた。
 ……千秋、一生のだめには敵わないんだろーな、なんて千秋と同じことを考えていたとは思うまい。

 ―――さぁ、聞かせてもらおうか。お前の、ただ唯一求めてたのだめの『音』ってやつをさ。



 
dominant … 属音。主音に次いで重要な音。
さぁ。瞬いた暗闇の向こうに、輝くばかりの世界が待ってる!
 


 

 
inserted by FC2 system