tutti  capriccioso cantabile


 
 誰かの心に私の『音』が届くというならば。私は、私の全てをかけて奏で続ける。
 音を、楽しむこと。ただ、音を求め続けること。 それが、今の私に出来る、ただ一つのこと。
 capriccioso cantabile ─── 気ままに気まぐれに、歌うように。
 音は響く。音は届く。ただひたすらに、どこまでも。

 舞台袖から見える客席にはR☆Sのメンバーの顔が見える。多分、松田さんやジジイも来てるんだろう。彼らは音楽家として、そしてこの俺が「唯一ゴールデンペアにと望んだピアニスト」の実力を知りたいがためにこの場にいるんだろう。
 …何だか試されているような気がしてあまり気分は良くないが、そんな事でのだめの実力を測れるというなら願ったりだ。
 それにしても。俺はニコニコ笑顔で客席に向かってお辞儀をするのだめに呆れた視線を向ける。
 お前、この状況本当に分かってんのか? 緊張してたんじゃないのか?
 そんな事を微塵も感じさせないで、のだめはピアノチェアに座った。ゆっくりと目を閉じる。その凛とした背中には迷いは見られない。のだめの白くて細い指が鍵盤の上に乗せられる。誰もが魅了され、引き込まれる「のだめの世界」を作り出す魔法の指。


 ───モーツァルト、「きらきら星の主題による変奏曲」。
 のだめが、初めてのサロンコンサートで弾いた曲。軽やかで、キラキラと輝いた音の粒。……俺が、様々な覚悟を胸に抱いた日。
 いつか、のだめに追い越されるであろう覚悟。そして、簡単には追い越させないという覚悟。それと同時に、のだめのピアノが俺だけのものでは無くなるのだという覚悟。
 あれからずっと追いかけっこを続けている俺達。止まっては進み、振り返っては顔を上げる。成長し続けるのだめと、更に上を目指し続ける俺。変わっていないな、と思う反面、それが俺達らしいけどと苦笑する。
 ピアノの上で踊っているのだめの指。あの指がとても温かいのを知っている。優しいのを知っている。これから更に進化するであろうのだめの『音』を作り出す、魔法の指であることも。


 ───俺が音大時代に書いた「のだめラプソディ」。
 誰も知らないだろ? と聞いても、「どうしても弾きたい曲だから」と譲らなかった。俺が一度しか聴かせなかったあの曲を蘇らせたのは、のだめだ。峰や真澄と、年が明けるのも気にしないで演奏した。
 ……大体、R☆Sもそうだが、「のだめラプソディ」って何だよ。勝手に名前つけやがって。そう思いながら自分もいつの間にかそう呼んでいる。他に名前が思い付かなくなってしまった。
「……何か、懐かしいな」
「そうですね……あの頃は、俺様千秋様で。まさか、今こうしているとは思いもしませんでした」
 俺の隣に来ていた峰と真澄を目だけで振り返る。

 ───そうだな。

 本当にそう思う。まさか、俺が海外に行けるようになるとは。……飛行機に乗れるようになるとは。
 日本で出来ることを探そうと必死になっていたあの頃。
 そして、自分一人では本当にに何も出来ないのだと思い知った、あの頃。
 隣を見ればのだめがいて、すぐ後ろを峰と真澄がくっついて来て。Sオケの皆がいて。音楽の楽しさを教えてもらった。楽譜をなぞるだけじゃない、皆で一つの『音』を紡いでいく楽しさを。……その時にも隣には、アイツがいた。今も、きっと……これからも。


 ───ベートーベンの「ピアノソナタ第八番 ハ短調 Op.13『悲愴』」。
 アイツと出会った時に弾いていた曲。俺達の、始まりの曲。ただ一つ違うのは、あの時の「悲惨」とは全然違う、「正しい悲愴」だって事だ。今ではもう聴くことはなくなったが、少し……寂しい、だなんて。

「こんな音を鳴らすんだねぇ……」
 頬杖をつきながら、松田は口元に珍しい笑みを浮かべた。まるで、やってくれるね、とでも言いたげな。
 あの、千秋が二度にも渡って渡仏を誘ったという変態の彼女。最初の出会いは、まぁ……何とも奇妙なものだった。まだまだお子様のような顔つきで、千秋の後をついていくような感じがしていたのに。
「女ってのは怖いねぇ」
 このままだと、捨てられるぞ? 千秋くん。音楽でも、私生活でも。
「あんなピアニストを隠してたとは…惜しいな、千秋くんがいなけりゃ俺が引っ張り上げるのに」
 ま、そんなことをしようものなら千秋くんに殺されるだろーけどな。今度、彼女ちゃんを誘って千秋くんをからかってみよう。

「まだまだ粗削りな部分は残ってますが……のだめチャン、成長しましたネ」
 ふ、とシュトレーゼマンの目が細くなり、真剣味を帯びる。
 桃が丘に来て、最初に聴いた音はのだめの「悲愴」。自分の思いのままに奏でるピアノ。彼女に厳しい事を言った。それでも、彼女は自分の力で這い上がってくるだろうと確信した。自らの置く世界を変えようと踏み出したのは彼女自身。今も常に進化を重ねているけれど……あの頃にはなかった、包み込んでくれるような温かい音色はきっと千秋のおかげ。千秋にのだめが必要なように、のだめにも千秋がいなければ音は鳴らない。それを改めて昨日知ったであろう、二人。
「きちんと……『分け』られましたネ、千秋」
 音楽家としての自分の思いと、のだめへの想いと。
 でもま、昨日みたいなコトがあるなんて、まーだまだ修行ですかネ。これからも楽しみにしてマスよ、のだめチャン。何て言ったって、あなたはいつも私達の常識を超えて行っちゃう子なんだから。

 野外なのにも関わらず、響き渡る拍手。満足した顔でお辞儀するのだめ。その、晴れやかな笑顔。俺も、手が痛くなるくらい拍手していた。……でも、まだ仕事が残ってる。
 のだめの目が、舞台袖にいる俺に向けられる。ああ、分かってるよ。

 ───俺達の音楽は、こんなもんじゃないだろ?

 これまで見せたこともないような優しい笑みを浮かべて頷く千秋に、峰と真澄はしばし瞠目する。
 準備していたヴァイオリンを手に、スタッフの合図で舞台に足を向ける。
「千秋…頑張れよ!」
「見守ってますわ」
 二人の声に後ろ手で応える……が、その足が止まった。
「……千秋?」
───峰、真澄」
「?」
「あれが、俺が認めた『音』だ。でも、二人なら世界をも認めさせられる。俺達にはその自信と確信がある。……のだめの『音』に惚れんなよ」
 アイツに合わせられるのなんて、俺くらいしかいないんだから。
 そのまま再び歩き出した千秋の背中に二人は苦笑する。
「あーあ、言ってくれちゃって」
「でも、千秋様すごく楽しそうだわ」

 ワクワクする。今までのどの演奏会よりも胸が踊る。
 早く音を紡ぎたくて仕方がない。なぁ、のだめ。お前も今こんな気分か?
 さぁ、歌おう。楽しい、最高に楽しい音楽の時間だ。

 ───ヴァイオリンを抱えて、千秋は舞台へと小さな、でも限りなく大きい一歩を踏み出した。



 
capriccioso cantabile … 気ままに気まぐれに。歌うように。
それこそが彼が求めた唯一つの音。
 


 

 
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