『彼』は逃げている。その自覚はあったし、例えそうだとしてもその時は目を瞑ってやろうという気持ちだった。
そんな疲れきった瞳でスコアと向かう彼なんて見たくも無かった。
そこまでの人材だったのなら、初めからこのような過酷な世界では生きてはいけない。
それでも、『彼』を失いたくはなかったから。きっと、立ち直ってくれると信じていたから。
だから、『彼』に賭けてみようと思った。
『………どうやら、私は賭けに勝ったようデスネ』
『シュトレーゼマン、貴方いったいいくつだと思ってんですか?お体に障りますよ』
『ノーン!エリーゼ、音楽と煙草と酒と女がいなかったら、私は生きていけまセーン!』
『だったら、さっさと冥土っていう所を見てみます?』
『………イイエ』
あの頃よりもめっきり増えてしまった皺をくしゃくしゃにして、それでもマエストロ・シュトレーゼマンは微笑んだ。
その顔を疑い深そうに見ながらも、エリーゼは目下の机に置かれた書類を手に取る。
『……本当に大丈夫なんですか、彼は』
『多分ネ。おや、エリーゼはあの子を信じてないんデスカ?』
『あたしはただ金を稼げるならいいのよ。……ただ、その、これはまだ……早いかと』
『早く連絡を取りナサイ』
『マエストロ!』
『――― 連絡を、と言ってマス。二度は言いマセン、エリーゼ?』
貫かれた視線の強さに、エリーゼはその機関銃のような口を止めた。
この時の彼には何を言っても意味が無い。いつだったか、1週間ものリレー公演をした時だって、こんな顔をして。
楽屋に戻った途端倒れて、即入院になったのはまだそんな昔のことじゃない。
だが、彼は信じている。彼の、全てを掛けた者を。
彼が、その生涯で唯一、彼が得た全てを与えようと決めた、『彼』を。
『……分かりました。でも、それに応じるかは彼次第ですよ?』
『応じますよ。「機」は熟しました……もう、十分デス』
『何を根拠に、』
『あの子の至福の女神がね、』
意味ありげに微笑を湛えたシュトレーゼマンは、椅子を半回転させ、窓辺へと近づいた。
立ち上がるだけで腰が震えるのは、さすがにもう歳だからだろうか。
……友は、皆去った。何もかもを燃え尽す程に恋焦がれていた、決してその本音を伝えることは出来なかった彼女でさえも、若い時の輝いた笑顔のまま……こうして、この胸の中に生きている。
時が経ったのだ、と。
けれど、「まだだ」と友に告げていた。「まだ、遣り残したことがある」、「まだ、あの半人前な弟子を置いてはいけないから」と。
携帯を片手に、半信半疑の表情を浮かべながらも『彼』へのダイヤルを回し始めたエリーゼを横目で見て、シュトレーゼマンは窓の外へと顔を向けた。
仲睦まじく寄り添う二羽のムクドリ。子供に追いかけられ、羽ばたいていくのを見ながらシュトレーゼマンの瞳が細まった。
「……この世界は何処までも締め切られた箱の中デス。風を切り波に乗る鳥と言えども。空が逃げ場であるはずがなく、それならば鳥が自由であるはずもない。全力でなければ飛ぶことすら出来ないのだから」
だから、もう一度立ち上がりなサイ。自らの、足で。自らの持つ、その「音」で。
もう一度、世界に貴方達の「音楽」を響かせなサイ。それが、私に対する、親孝行というものデス。
『……とりあえず、こちらに向かうそうですよ』
『そうデスカ』
『本当に大丈夫なんですか?また、逃げ出したり……』
『彼を信じまショウ、エリーゼ』
きっと、彼はもう、前の彼ではないから。何も映していなかった、あの硝子のような瞳ではない筈だから。
シュトレーゼマンは、引き出しの中に入れられた少し古い雑誌を取り出した。
は、とエリーゼが目を見張る。まだ持っていたのですか、と口が動いたのが分かった。
何度も何度も読み返したページ。「止めろ」と目を背ける彼の頭を掴んで、眼前に引き寄せた。
よく見ろ、これが貴方の実力なのだ、と。総譜を見ない貴方など、音楽と語り合わない貴方など指揮者である意味がない。
そんな弟子はいらない。少し頭を冷やせ、それまで音楽には一切触れるな。
――― お前には、音楽と共に生きる資格など、ない!
『……指揮者、シンイチ・チアキ。音楽活動完全復帰デスネ』
全ては、一冊の茶封筒から始まった、それは ――― 新たな始まりの物語。