呪いはかかったままだ。おそらく、それは俺が死んでしまってからも。
つめたい月 02


 
 呪いはかかったままだ。おそらく、それは俺が死んでしまってからも。

「……頭いて」
 毎日浴びるように飲んでいた酒が抜けていくのを感じながら、部屋の片づけをし始めた。
 これじゃあ、あいつの部屋が汚いなんて言えた義理じゃねぇな、と苦笑してしまう。
 時計で時間を確認して、まだ明るいかな……なんて呟きながらカーテンを開ける。
 久方ぶりの陽の光を浴びて、あぁこんなんで生きてる、って思うのはゲンキンだろうかと考えた。
「あいつ、今日来るのかな」
 行ってきます、と微笑んで出かけていった姿を思い出して、知らず口元が緩んでいた。
 メールでもして「来る」と返事が着たら買い物にも行こう。
 たまには料理でも作らないと腕が鈍ってしまいそうになるから。
 んー、と大きく伸びをした後、携帯に手を伸ばすと丁度良く軽やかなメロディーが流れ始めた。
「……oui? のだめか?」
『お久しぶり、チアキ』
「………エリー、ゼ」
『随分声の調子も戻ったんじゃない? 元気そうで安心したわ』
「あ、ぁ……すまない。何か、用事でも……あるのか?」
 声が上擦ってはいないだろうか。
 まだだるそうに残っていた酒が一気に蒸発したような気分だった。
 血の気が下がっていくのが分かる。思わず、ソファに片手をついて身体を支えていた。
『チアキ、……その、大丈夫?』
「……あぁ」
『シュトレーゼマンからの伝言よ』
「……マエストロからの?」
『――― 事務所に来てくれ、と。話があるそうよ』
 何と言って電話を切ったのかも分からない。気がついたら、事務所の入り口の前に立っていた。
 これほど。この、二年間、決して一歩たりとも此処へは近づかなかったのに。
 まるで迷子の子供のようだ。足が、膝が笑って前へ進めない。
 ………俺に、この門を潜る資格が、あるんだろうか? 資格は、戻ったんだろうか?
 俺は、「俺自身の答え」を、見つけ出せることが出来たのだろうか……?

『いらっしゃい、チアキ』
『……マエストロ。お久しぶり、です』
『そう堅苦しくならないで下サイ、チアキ? 迷子チャンみたいですヨ』
『………』
 さて、とシュトレーゼマンは唐突に本題を振り始めた。目の前に一冊の茶封筒が放りなげられる。
 何処かで見たような、癖のある文字。
 つ、と視線をシュトレーゼマンに移すと、こくりと頷かれた。どうやら、内容物を確認しろと言いたいらしい。
「………!!」
 指先が震えた。声が出てこない。あぁ、こんな感情は久しく感じてはいなかった。
 何と言い表せばいいのだろう?
 ずっと昔、出会った頃から俺の親友なんて名乗ってた奴からの依頼状。
 いつだかもこんな形で依頼をしてきたことがあったよな。あの時は、まだ俺達も若くて。
 ていうか、いい加減手書きでの依頼は止めろよ。
『受けなサイ、チアキ。これは貴方の仕事デス』
『?! ちょっと、待ってくださいマエストロ。俺は……ッ』
『いつまでそうして逃げているつもりデス。まだ、迷いがあるのデスか』
『……、そうです。だから、俺は、』
『相変わらず神経質な性格をしてマスねぇ、チアキは』
『な、』
『この二年、全くの成長なしというのもまた一つの才能デスかね? ですが、私は聴きましたヨ、君の女神から。君は、もう大丈夫だから、と』
『女神…………まさか、の――』
 口には出さないで、とシュトレーゼマンが瞳を伏せた。
 今はまだ、それは言葉には出してはならないのだろう。
『では聞きまショウ。君は、何に迷ってるのデスカ』
『……ですから、』
『言い訳は聞きたくありマセン。この二年、音楽と離れてどうでしたか。寂しかったでしょう、辛かったでしょう、狂おしくなった夜だってあったのではないですか? 音楽を、本能が求めていた瞬間は一度でもないと言い切れますか?』
『……いいえ』
 瞳を閉じればファンファーレが聴こえる。深呼吸すれば、あの開演前の緊張感が身を包む。
 自ら捨てることを望んだ二年という時間だったのに、気づけば己の中に眠る音楽の欠片を集める時間を過ごしていた。
『チアキ。私は、貴方の本当の気持ちが知りたい。……何を、望んでいるのですか』
……俺に間違いがあるならばそれを知りたいのです。俺は、何処か曲がってはいけないところを曲がってしまったのか、それとも、行くべき道をまだ見失っているのか、あるいは、飛び降りれば良いのに飛び降りれない、ただの臆病な鶏なのか
『――― ならば、行って確かめなサイ。チアキ。迷うのも、立ち止まるのも大いに結構。その仕事で、貴方の音を取り戻して見せなサイ。……彼女と、共に』

 二年振りの、「仕事仲間」として。

『……oui』
 エリーゼが去っても、シュトレーゼマンがオペラのレコードを掛け始めても、千秋はそこから動こうとはしなかった。
 その文面から、読み取れるだけのものを読み取ろうとしているかのように。

┌――――――――――――――――――――――――――――――――――

│ よぉ、親友。ご隠居生活はどうだ? そろそろ表舞台に戻って来いよ。
│ マエストロ・シュトレーゼマンからOKもらったから、正式に依頼するぜ。
│ お前の、……いや、お前らの完全復帰第一号コンサートを俺達に飾らせてくれ。
│ 良い返事を期待して待ってるよ。


│ コンダクター:Chiaki Shinichi     ピアニスト:Megumi Noda
│ オーケストラ:R☆S

│ 曲目: ……いろいろ考えたんだけどさ、お前らが決めてくれ。
│      俺達は、お前らの望む「音」を作り上げてやる。
│      お前らが、お前ららしく復帰を飾れるよーな、格好イイ舞台にしようぜ!


│ 世間をお騒がせする鬼指揮者の親友より。

└――――――――――――――――――――――――――――――――――

 ほんと、いつだってお前はやってくれるよ。
 固まりついている俺の心を、あっという間にぶっ壊してくれるんだ。
 不安も、恐怖も、喜びも、楽しさも、何もかもぐちゃぐちゃしたままだけれど。
 ――― それでも、二年間凍り付いていた俺の時間が、ゆっくりと溶け始めたような気がしたんだ。



 
砕け散った小さな欠片を一つずつ集めて、ようやくこの場所までやって来られたんだ。
 


 

 
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