呪いはかかったままだ。おそらく、それは俺が死んでしまってからも。
「……頭いて」
毎日浴びるように飲んでいた酒が抜けていくのを感じながら、部屋の片づけをし始めた。
これじゃあ、あいつの部屋が汚いなんて言えた義理じゃねぇな、と苦笑してしまう。
時計で時間を確認して、まだ明るいかな……なんて呟きながらカーテンを開ける。
久方ぶりの陽の光を浴びて、あぁこんなんで生きてる、って思うのはゲンキンだろうかと考えた。
「あいつ、今日来るのかな」
行ってきます、と微笑んで出かけていった姿を思い出して、知らず口元が緩んでいた。
メールでもして「来る」と返事が着たら買い物にも行こう。
たまには料理でも作らないと腕が鈍ってしまいそうになるから。
んー、と大きく伸びをした後、携帯に手を伸ばすと丁度良く軽やかなメロディーが流れ始めた。
「……oui? のだめか?」
『お久しぶり、チアキ』
「………エリー、ゼ」
『随分声の調子も戻ったんじゃない? 元気そうで安心したわ』
「あ、ぁ……すまない。何か、用事でも……あるのか?」
声が上擦ってはいないだろうか。
まだだるそうに残っていた酒が一気に蒸発したような気分だった。
血の気が下がっていくのが分かる。思わず、ソファに片手をついて身体を支えていた。
『チアキ、……その、大丈夫?』
「……あぁ」
『シュトレーゼマンからの伝言よ』
「……マエストロからの?」
『――― 事務所に来てくれ、と。話があるそうよ』
何と言って電話を切ったのかも分からない。気がついたら、事務所の入り口の前に立っていた。
これほど。この、二年間、決して一歩たりとも此処へは近づかなかったのに。
まるで迷子の子供のようだ。足が、膝が笑って前へ進めない。
………俺に、この門を潜る資格が、あるんだろうか? 資格は、戻ったんだろうか?
俺は、「俺自身の答え」を、見つけ出せることが出来たのだろうか……?
『いらっしゃい、チアキ』
『……マエストロ。お久しぶり、です』
『そう堅苦しくならないで下サイ、チアキ? 迷子チャンみたいですヨ』
『………』
さて、とシュトレーゼマンは唐突に本題を振り始めた。目の前に一冊の茶封筒が放りなげられる。
何処かで見たような、癖のある文字。
つ、と視線をシュトレーゼマンに移すと、こくりと頷かれた。どうやら、内容物を確認しろと言いたいらしい。
「………!!」
指先が震えた。声が出てこない。あぁ、こんな感情は久しく感じてはいなかった。
何と言い表せばいいのだろう?
ずっと昔、出会った頃から俺の親友なんて名乗ってた奴からの依頼状。
いつだかもこんな形で依頼をしてきたことがあったよな。あの時は、まだ俺達も若くて。
ていうか、いい加減手書きでの依頼は止めろよ。
『受けなサイ、チアキ。これは貴方の仕事デス』
『?! ちょっと、待ってくださいマエストロ。俺は……ッ』
『いつまでそうして逃げているつもりデス。まだ、迷いがあるのデスか』
『……、そうです。だから、俺は、』
『相変わらず神経質な性格をしてマスねぇ、チアキは』
『な、』
『この二年、全くの成長なしというのもまた一つの才能デスかね? ですが、私は聴きましたヨ、君の女神から。君は、もう大丈夫だから、と』
『女神…………まさか、の――』
口には出さないで、とシュトレーゼマンが瞳を伏せた。
今はまだ、それは言葉には出してはならないのだろう。
『では聞きまショウ。君は、何に迷ってるのデスカ』
『……ですから、』
『言い訳は聞きたくありマセン。この二年、音楽と離れてどうでしたか。寂しかったでしょう、辛かったでしょう、狂おしくなった夜だってあったのではないですか? 音楽を、本能が求めていた瞬間は一度でもないと言い切れますか?』
『……いいえ』
瞳を閉じればファンファーレが聴こえる。深呼吸すれば、あの開演前の緊張感が身を包む。
自ら捨てることを望んだ二年という時間だったのに、気づけば己の中に眠る音楽の欠片を集める時間を過ごしていた。
『チアキ。私は、貴方の本当の気持ちが知りたい。……何を、望んでいるのですか』
『……俺に間違いがあるならばそれを知りたいのです。俺は、何処か曲がってはいけないところを曲がってしまったのか、それとも、行くべき道をまだ見失っているのか、あるいは、飛び降りれば良いのに飛び降りれない、ただの臆病な鶏なのか』
『――― ならば、行って確かめなサイ。チアキ。迷うのも、立ち止まるのも大いに結構。その仕事で、貴方の音を取り戻して見せなサイ。……彼女と、共に』
二年振りの、「仕事仲間」として。
『……oui』
エリーゼが去っても、シュトレーゼマンがオペラのレコードを掛け始めても、千秋はそこから動こうとはしなかった。
その文面から、読み取れるだけのものを読み取ろうとしているかのように。
┌――――――――――――――――――――――――――――――――――
│
│ よぉ、親友。ご隠居生活はどうだ? そろそろ表舞台に戻って来いよ。
│ マエストロ・シュトレーゼマンからOKもらったから、正式に依頼するぜ。
│ お前の、……いや、お前らの完全復帰第一号コンサートを俺達に飾らせてくれ。
│ 良い返事を期待して待ってるよ。
│
│
│ コンダクター:Chiaki Shinichi ピアニスト:Megumi Noda
│ オーケストラ:R☆S
│
│ 曲目: ……いろいろ考えたんだけどさ、お前らが決めてくれ。
│ 俺達は、お前らの望む「音」を作り上げてやる。
│ お前らが、お前ららしく復帰を飾れるよーな、格好イイ舞台にしようぜ!
│
│
│ 世間をお騒がせする鬼指揮者の親友より。
│
└――――――――――――――――――――――――――――――――――
ほんと、いつだってお前はやってくれるよ。
固まりついている俺の心を、あっという間にぶっ壊してくれるんだ。
不安も、恐怖も、喜びも、楽しさも、何もかもぐちゃぐちゃしたままだけれど。
――― それでも、二年間凍り付いていた俺の時間が、ゆっくりと溶け始めたような気がしたんだ。