”音”は俺に応えてくれるだろうか。俺に、応えられるだけの”資格”がついただろうか。
―――音楽を信じた分だけ、音楽は天上の響きを返してくれる。
それを、教えてくれたのは。教えて、くれたのは――
「千秋くん……?」
誰かが呟いたのが聞こえた。でも、それに返事を返す余裕が無い。
視界の隅で、床に転がった指揮棒が見えた。
息が荒い。こんな事は久しぶりだった。……まるで、音楽に対する拒絶反応。
指が震えている。寒いわけでもないのに、何か捕まっていないと立っていられない。
―――まだ、「その時」じゃない。
そんな言葉がふと過ぎった。
まだ、無理だったんじゃないか。まだ、俺には音楽に戻る資格が無い。
だから、こんな――
―――違う。
それは、逃げだ。もう、これ以上逃げないと決めたじゃないか。共に、進んでいくと。
過去を振り返っても、悔やんでも、足を止めることはしないと、己に誓った。
傷を負ってでも、前に進むと。
一度、ぎゅ、と瞳を閉じてから大きく息を吐き出した。……まだ大丈夫だ。
あぁ、でもオケの皆を驚かせてしまったかもしれない。
真澄なんか口を開けたままポカンとしているし。
清良は、もしかしたら師匠経由で簡単な事情を知っているかもしれない。でも、峰も怪訝な顔をしているってことは、あいつには話さずに心の中に留めておいてくれたんだろう。
黒木くんは……大丈夫、という視線を送ってくれている。少しオーボエを傾けて、「休んできたら?」と合図をしてくれる彼の優しさが嬉しかった。
「悪い……ちょっと、休んでくる。自主練してて」
「千秋、大丈夫か?」
「あぁ、久しぶりだから……ちょっと緊張してるのかも」
「そか……」
心配そうな視線に見送られて、廊下に配置されているソファに崩れ込む。
少しずつ思考がクリアになって、思わず自嘲の笑みが零れた。なんてザマだ。
これが、かつての「鬼指揮者」のなれの果てとは。
でも、逃げ出さないだけましになったのだろう。……あの頃は、音楽と隣にいることすら苦痛だった。
だから逃げて……何者までも追いかけてこれないような場所に。
――でも、それじゃあ駄目なんだ。
俺は、もう一度音楽と語り合いたい。あんなにも音楽を体中で欲した自分が居た。
それを自ら再び手放す気などない。
……あいつが、俺の所に来るんだ。こんな、ひ弱な状態では一蹴されてしまう。
「千秋?」
「……峰か」
「大丈夫か」
「あぁ、悪い……驚かせたな」
「いや別に――驚いた、って言えば嘘ではないけど。……少し、予想はしてた」
「………」
「あそこまで完璧を求める音楽莫迦だろ、お前。だから、2年間も音楽活動を休止するってことは、それなりの理由があると見た」
「そうか」
「ただ、それで何も相談しなかったのは、少し……悔しかったけどな」
「………」
「そうだ、お前、空が青い理由を知ってるか?」
「……は?」
「何かな、清良が言ってたんだけど、空っていうのは人の涙を吸い込んで青色になるんだと。空が青になる度に、人の哀しみっていうのは少なくなるんだってさ。雨も然り。哀しみの涙を、いつか天に還すために青色に染まってるんだって」
「………」
冷たい雨の感触。右手に握りしめた、渡される筈のない――
真っ赤な瞳で、気丈にも微笑んだ、何よりも大切だった――
「……千秋?」
「――ぁ、あ。悪い」
「ホントに大丈夫か?今日は自主練にするから、帰って良いぞ?」
「……いや、練習に戻る」
そのかわり、と呟くと「ん?」と峰は振り返った。
「……明日、休みにしてくれないか?」
「おー、いいぞ。俺は、お前の親友だからな!」
「………………ばーか」