大通りから少し外れて、小さな路地の中にその古風な店はある。
初めに見つけてきたのは確かのだめだった気がする。
俺たちがゴールデンペアになる少し前、二人で「お忍び」みたいに帰国した時、たまたま入ったのがこの路地だった。
俺も隠れ家的な店は好きだったから覗き込んでいるうちに、あいつはある店に釘着けになっていた。
「……可愛いデス」
頭の後ろ斜めから覗き込んだ先にあったのは、一つの指輪だった。
きっと、宝石自体にも大した価値はない、本当に何処にでもある指輪だったのだろう。
普通の女が何百万もするような貴金属を欲しがるのに対して、あいつは素朴な優しさを持つのが好きだった。
その時に、店の中から出てきたオーナーが、これまた音楽好きな人で一瞬で俺たちを見抜いた。
あいつのお願いで来た「お忍び」がここで終わってしまうか、と危惧したものの、オーナーは気さくな人で、珈琲まで出してくれた。
特にあいつとは性格でも合っていたらしくて、いつまでも楽しく話をしていた。
そのうち指輪の事はすっかり忘れてしまったのだろう、他の店に移ってもその話題を口にすることはなかった。
……いや、そもそも「可愛い」と呟いたことさえ、あいつにとってみれば”失敗”だったのかもしれない。
結婚、というものに対して、俺が良い印象を持っていないことは分かっていたはずだから、心の中で考えていても口にすることは出来なかったのだろう。
何よりあの頃は、客演だサロンだ楽曲提供だと、身を粉にして日々を生き抜いていたからそれまで頭が回っていなかったことも事実だ。
それでも、俺は……もし”結婚”するなら、あいつがいいと思ってたんだ。
―――初めて、心から「欲しい」と言えたんだよ。お前に関しては。
カラン、と古びたドア鈴は今でも変わらない。あれからもう……4、5年近くなるのだろうか。
からくり時計に油を差していたオーナーが顔を上げ――心底驚いたような表情を浮かべる。
それを見て、思わず苦笑してしまった。
「……お久しぶりです」
「これまた驚いたな……いらっしゃい、我が店の唯一の予約さん」
皺も白髪も増えてしまっているけれど、コレクションに対する愛情に煌めく瞳は変わらない。
固く握手を交わした後、カウンターへと下がる彼の後を追いかける。
「あの後、心配していたんだよ。……音楽活動を完全休止、なんて穏やかな話じゃないだろう?」
「……そうですね」
「もう、大丈夫なのかい」
「復帰をすることにしました。……不安は、未だに拭うことは出来ませんが」
「そんなもんだよ。のだめちゃんは? 仕事かい?」
「ええ。今度の客演で、競演することになりまして――これを、」
「……? チケット?」
はい。と頷いた俺を、ぽかんと見つめるオーナーはすっかり動きを止めてしまっていた。
「……貴方に、見届けて頂きたいんです」
「見届ける?」
「はい。――予約した、ものを」
は、と目を瞠ったのが分かった。そして、差し出した一つの鍵に視線を落とす。
次に顔を上げた時には、その表情には戸惑いや不安は一切なく、心底嬉しそうな笑顔だけが残っていた。
「そうか……”ついに”、か」
「ええ。――随分と、待たせてしまったんですが。それだけじゃない。……受け取ってもらえないかもしれない、俺は……彼女を、酷く傷つけてしまったから」
「……。お前さんたちに何があったかは聞かんよ。それでも、あの時見たお前さんたちの絆はそうそう容易いものじゃあないと、俺は思ったがね」
「………」
ちょっと待っててくれ、と言って奥に下がったオーナーを待っている間、机の上に無造作に置かれた小さな鍵をぼんやり眺めていた。
「可愛い」と呟いた時のあいつの無意識の笑顔を忘れる事が出来なくて。
カフェに入って、「ちょっと用が出来た」なんて在り来たりな言い訳でこの店に駆け戻った。
もちろん、あの指輪をくれと言ったところで簡単にはオーナーは納得しなくて。
それでも土下座をする勢いで頼み込んだ。
―――あいつの”笑顔”を、一つでも増やしてやりたいんです。お願いします、あの指輪を売って下さい―――
「……昔話に浸ってたかね」
「あ、」
いつの間にか戻ってきたオーナーがにやにやしながら見上げていた。苦笑して向き直る。
「どうぞ」と差し出された古めかしい箱に、小さな鍵穴がついている。
微かに震える指を叱咤して、鍵を手に取り鍵穴に差し込む。かちゃん、と無機質な音が響いた。
オーナーの手が箱の蓋をゆっくり開けると、中からはあの頃と変わらない輝きを持つ指輪が現れた。
……長かった。お前を、迎えに来ることが出来るようになるまで、随分と寄り道をしてきてしまった。
それでも、こうして戻ってこれたことを、何よりも嬉しく思う。
おかえり。―――そして、ただいま。