寂しい時。哀しい時。絶望に崩れ落ちそうな時。
俺を救ってくれたのは、正確に時を刻み続ける”鼓動”だった。
ひょんなことから俺の手の中に落ちてきた銀色の懐中時計。きっと、あいつがくれたんであろう、唯一の宝物。
それを握りしめて、”鼓動”に耳を傾け、深く深呼吸すると無敵になれるような気になる。
あいつが、傍で共にいてくれるような気がして。
――そうして、負けない、と決めたあの日から結構な月日が経った。
過剰すぎる程の街のネオンと、痛めつけているようにしか思えない程張り巡らされたイルミネーション。
決して白さを感じさせない雰囲気の中で、それを横目に眺めながらも通り過ぎていく人々。
店の前に吊されている段幕を見て、ようやくもうすぐクリスマスが来ることを知った。
……そういえば、今回の客演は年明けコンサートだったか。
『今年は、ホワイトクリスマスだといいデスね』
そう言ってロンドンに発ったあいつは、きっと今頃雪合戦でもしてマネージャーに怒られてるんだろう。
いつまで経っても子供で、ピアニストとしての自覚があるんだかないんだか。
ケーキの予約や客引きをすり抜けながら、ポケットの中にある箱の感触に口元が緩んでくる。
あいつからもらった”お守り”と、あいつに渡したい”お守り”。
唐突に吹き荒れた冬風に身を竦ませ、足早にホテルへと歩を進めた。
「音の流れを掴め! たーららら、じゃなくてたーらっららーだろ!」
「金管タイミングが合ってない!」
「峰、さっきからビブラートがずれてる! それでもプロか?!」
「……何か俺だけキビしくねぇ?!」
「だったらプロらしく弾いてみろ!」
鬼指揮者、とはよく言ったものだ。これがあってこそ千秋真一、というものが彼にはある。
仕事人間の千秋が急遽「一日休みが欲しい」と言って来た時には、思わず目を見開いたものだったが。
どうやら、その休暇一日で本来の自分のペースをあらかた掴み直してきたようだ。
それが、オケの大半のメンバーの感想だった。
休憩中、珈琲を片手に練習室から出て行く千秋の姿を見つめながら、峰は大きく溜息をついた。
「ああいう所まで戻らなくてもいいんだっての」
「まぁまぁ、その分だけ千秋くんも期待してるんだって」
「……久しぶりに見たね、鬼指揮者の千秋くん」
「ほんと。でも、まだ100%っていう訳ではないんでしょうけどね」
真澄がふぅ、と息を吐くと「それが千秋くんでしょ」と清良が苦笑する。
黒木はくすくすとリードの調子を見ながら、それを二人のやり取りを聞いていた。
清良に泣きつきながらも「でもさ」と峰が顔を上げる。
「……まさか、この曲を選択してくるとは思わなかったんだけど」
そう言って指さした楽譜は、彼らにとっても縁深い楽曲である。
「――ラフマニノフ、ピアノ協奏曲第2番。ね」
「そ。のだめの意見も聞いてないんだろ? それなのに、休暇から帰るなり『これにするぞ』って……あー、でもまぁ、俺様が戻った事か?」
「………千秋くんは、この曲にすることを最後まで悩んだと思うよ」
「「え?」」
黒木の発言に、3人の視線が集まる。ま、僕にも分からないけどね、と言葉を濁しリード調整に戻る。
納得がいかない、という表情を浮かべているのは峰だったが、清良が「そうね」と話を打ち切ってしまう。
「でも、千秋くんが復帰コンサートをこれで進めたい、っていうならあたしは――コンミスとして、精一杯サポートするわよ?」
「……当たり前だろ」
俺は、あいつの親友なんだから。
――そう言い切った峰に、清良と黒木は人知らず柔らかい微笑みを浮かべていた。
大丈夫、彼には”女神”の次にこんなにも力強い味方がいるのだから――と。