負けない、と決めたあの日から結構な月日が経った。
ささやかなぬくもり 06


 
 寂しい時。哀しい時。絶望に崩れ落ちそうな時。
 俺を救ってくれたのは、正確に時を刻み続ける”鼓動”だった。
 ひょんなことから俺の手の中に落ちてきた銀色の懐中時計。きっと、あいつがくれたんであろう、唯一の宝物。
 それを握りしめて、”鼓動”に耳を傾け、深く深呼吸すると無敵になれるような気になる。
 あいつが、傍で共にいてくれるような気がして。

 ――そうして、負けない、と決めたあの日から結構な月日が経った。

 過剰すぎる程の街のネオンと、痛めつけているようにしか思えない程張り巡らされたイルミネーション。
 決して白さを感じさせない雰囲気の中で、それを横目に眺めながらも通り過ぎていく人々。
 店の前に吊されている段幕を見て、ようやくもうすぐクリスマスが来ることを知った。
 ……そういえば、今回の客演は年明けコンサートだったか。
『今年は、ホワイトクリスマスだといいデスね』
 そう言ってロンドンに発ったあいつは、きっと今頃雪合戦でもしてマネージャーに怒られてるんだろう。
 いつまで経っても子供で、ピアニストとしての自覚があるんだかないんだか。
 ケーキの予約や客引きをすり抜けながら、ポケットの中にある箱の感触に口元が緩んでくる。
 あいつからもらった”お守り”と、あいつに渡したい”お守り”。
 唐突に吹き荒れた冬風に身を竦ませ、足早にホテルへと歩を進めた。



「音の流れを掴め! たーららら、じゃなくてたーらっららーだろ!」
「金管タイミングが合ってない!」
「峰、さっきからビブラートがずれてる! それでもプロか?!」
「……何か俺だけキビしくねぇ?!」
「だったらプロらしく弾いてみろ!」
 鬼指揮者、とはよく言ったものだ。これがあってこそ千秋真一、というものが彼にはある。
 仕事人間の千秋が急遽「一日休みが欲しい」と言って来た時には、思わず目を見開いたものだったが。
 どうやら、その休暇一日で本来の自分のペースをあらかた掴み直してきたようだ。
 それが、オケの大半のメンバーの感想だった。
 休憩中、珈琲を片手に練習室から出て行く千秋の姿を見つめながら、峰は大きく溜息をついた。
「ああいう所まで戻らなくてもいいんだっての」
「まぁまぁ、その分だけ千秋くんも期待してるんだって」
「……久しぶりに見たね、鬼指揮者の千秋くん」
「ほんと。でも、まだ100%っていう訳ではないんでしょうけどね」
 真澄がふぅ、と息を吐くと「それが千秋くんでしょ」と清良が苦笑する。
 黒木はくすくすとリードの調子を見ながら、それを二人のやり取りを聞いていた。
 清良に泣きつきながらも「でもさ」と峰が顔を上げる。
「……まさか、この曲を選択してくるとは思わなかったんだけど」
 そう言って指さした楽譜は、彼らにとっても縁深い楽曲である。
「――ラフマニノフ、ピアノ協奏曲第2番。ね」
「そ。のだめの意見も聞いてないんだろ? それなのに、休暇から帰るなり『これにするぞ』って……あー、でもまぁ、俺様が戻った事か?」
「………千秋くんは、この曲にすることを最後まで悩んだと思うよ」
「「え?」」
 黒木の発言に、3人の視線が集まる。ま、僕にも分からないけどね、と言葉を濁しリード調整に戻る。
 納得がいかない、という表情を浮かべているのは峰だったが、清良が「そうね」と話を打ち切ってしまう。
「でも、千秋くんが復帰コンサートをこれで進めたい、っていうならあたしは――コンミスとして、精一杯サポートするわよ?」
「……当たり前だろ」
 俺は、あいつの親友なんだから。
 ――そう言い切った峰に、清良と黒木は人知らず柔らかい微笑みを浮かべていた。
 大丈夫、彼には”女神”の次にこんなにも力強い味方がいるのだから――と。



 
絶望から希望へ。
それが、彼の選んだ選択なら。
 


 

 
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