その箱の名前
クラシカルスタイル 09


 
 ――その、箱の名前。

「………出来た」
 かたん、とペンをピアノの上に置く。部屋中埋め尽くされた紙を、ちらりと横目で見てから時間を確かめた。
 ……出発まであと二時間。まぁ、仮眠くらいは出来るか。
 一瞬間に合わないかも、と思ったが……人間、馬鹿力ってやつはこういう時に出てくるのか。
 勉強になった。
 そんなことを頭の片隅に引っ掛けながら、あっという間に睡魔はやって来た。


「――よ、遅刻魔」
「……わざとじゃねぇ。第一、いつもギリギリで駆け込んできてる奴に言われたくない」
「うるせぇな。それこそ不可抗力だ」
「……どう不可抗力だって言うんだよ」
 他のオケのメンバーから離れ、個室に入るなり俺をなじることから始めた峰は嫌な笑みを張り付かせていた。
 ずっと曲名を出すのを躊躇っていた二曲目。
 どうしても間に合わなければ、元々決めていた協奏曲を入れようと考えていた。
 それでも完成させたかったのは、音楽家以前に一人の人間としての意地だ。
「二曲目は、”これ”でお願いしたい」
 バサ、と机の上に乗せた総譜は、どう見てもくたびれていた。つまり、市販のものではなく――手書き。
「え……これ?」
「そう、これ」
 煙草を取りだし、ようやく一服ついた俺に峰は信じられないような顔を向け、視線を落とす。
 少しリズムを取って、メロディーを確かめた峰の瞳が見開かれていく。
 ………それにしても、表情豊かな奴だな。
 「え、あの、これ」と日本語にならない言葉を羅列する峰に絶対零度の視線をくれてやると、姿勢を正した。
「……本気か?」
「あぁ。じゃなきゃ、俺が直々に書く訳がないだろ」
「――俺様」
「何とでも言え。……出来るか?」
 のだめには時間がないから詰め込みになると言った。だが、それは元を返せばオケにも言える 事だ。
 何より今まで聞いた事がない奴ばかりの、俺が作った曲。
 それでも、俺には”これ”以外の音を響かせるつもりなど、毛頭無い。
 合わさった視線を違えることなく、俺たちはしばらく睨み合っていた。
 峰は、俺の”覚悟”を見極めようとしていたし、俺は峰の”信頼”を崩さないために逸らさなかった。

 分かった、負けたよ。と小さく呟いたのが聞こえた。
 随分時間がかかったのか、煙草の先の灰が随分長くなっている。慌てて灰皿を引き寄せた。

「出来るか?」
「出来ない、じゃねぇよ。やってやる、って言ってんだ」
「……半端は承知しない」
「上等だ、コラ。何様だと思ってんだよ、お前」
「――俺様。………頼む」
 おう。そう言った峰の笑顔が弾ける。そのままカレンダーに視線を移した。26日。
「ラフマを完璧にしておきたかったお前の理由がやっと分かったぜ。これのためだな」
「……出来るかは、一か八かだったんだけどな」
「のだめが来るまで一週間か。……肉付けが何処まで出来るか、だな」
「それに、”あいつ”の問題もある」
「―――”問題”?」
「……楽譜を見てからのお楽しみ、ってやつだ」
 さて、練習再開するぞ。今日から、”これ”の強化練習だ。………あ、それから峰。
「んぁ?」
「大事な事、忘れてた」
「……はぁ? それを先に言えよ」
「――頼みが、ある」
「……………………………………は?」
 その時の峰の不抜けた顔は、証拠に残しておきたいくらい情けないものだった



 
巻き込んで。動き出して。
 


 

 
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