お前はあの日、そのあと起こることを全て知っていたかのように不安そうだったな。
クラシカルスタイル 10


 
 白くたおやかなその腕は、やはり夢の中で何度も俺の名を呼んでいる。
 それを掴み切れないうちに、いつもいつも朝が来る。
 瞳を閉じるまではまたあの輝ける朝が来るのかという恐怖に捕らわれるのに。
 瞳を開けると何もかもを消し去ってくれる漆黒の夜の闇を求めるんだ。

 あぁ、俺は、その呪縛から逃れる術など、知らない。



「……納得いかねぇ」
「それ、今日何度目よ? いい加減しつこいってば」
「だって! あの、人前で派手なことをしたがるのを心底嫌う千秋が!」
「……それは五回目。ねぇ、千秋くんも何か考えがあってのことじゃないの?」
「それは、」

 ―――頼みが、ある。

「だったら、それに任せましょ? それじゃ駄目なの?」

 ―――あいつには、皆の前で幸せになって欲しいんだ。

「龍? 聞いてんのー? ……っていうか、今日、千秋くん絶不調だよね」
「確かにそうなのよね。新しい曲が入ったっていうのに、よく振りミスしてるわ。千秋様」
「夢見でも悪かったのかな……」
 ぶつぶつ、と横で話す三人を一瞥して、峰はじっと指揮台に立つ千秋を睨み付けた。
 感性に鋭い千秋のことだ。峰のあからさまな敵意を含む視線など気づいているのだろう。
 それでも、頑なに瞳を閉じて精神を落ち着けようとしている。
「……やっぱ、俺、納得出来ない」
「龍?!」
「だって、おかしいだろ? 千秋だよ、確かに彼処にいるのは千秋だ。俺たちの俺様鬼指揮者だよ。……でも違う、昔の千秋じゃない」
「……」
「何があいつをあんなに変えたんだ? それが分からない」
「………龍ちゃん」
「でもそれは、誰もが口にしていいことではないよ」
「――黒木くん」
 それまで黙って傍観していた黒木が口を開いた。峰は思う。
 そう言えば、前に千秋の心情を理解しているかのように口を開いたのも彼だったと。
 ……それを、彼は何か知っている?
「くろ――」
「あ、練習再開するみたいだよ」
 先手を打たれたかのように、黒木の静かな微笑みが峰に向く。けれど、決して逆らわせない笑みだ。
 きっと彼は何かを知っていても口を開く気はないのだろう。
 分かっている。千秋自身が「話す」と決めなければ、何事も変わらないということが事実なのは。
 ――けれど。何も出来ないのは、歯痒い。そして、何よりも悔しい。

 俺には、この事態を好転させる術を、持っていないんだ。なぁ、千秋。



「――はッ……、は、……はぁっ、はっ……」
 ベッドを深く軋ませて、飛び起きる。暗闇は思考と判断能力を奪う。
 これは現実か? それとも、虚構の続きか?
 顎を伝い落ちる汗が酷く不愉快で、それでも拭おうとい気力さえない。
 まるで全力疾走したかのように体中が軋んでいる。このまま折れ、崩れ落ちてしまえたらどんなに楽か。
 ……でも、逃げないと誓った。
 そろそろと動き出した指が触れたのは、一瞬にして現実に戻す冷たい金属の感触だった。
 チャリ、と鎖が滑り、手の中に懐中時計が落ちてくる。
 発汗した顔にはその冷たさが心地よく、汗で濡れるのにも構わず頬に押しつける。
 耳元で規則正しく鳴り続ける”鼓動”は、相変わらず俺を落ち着かせてくれる。

 ――これじゃ、”お守り”という名の”精神安定剤”だな。

 何処からともなく湧き上がってきた自嘲の笑みが止まらない。暗闇の中、それだけが広い部屋に響く。
 あぁ、俺は何処へも逃れることが出来ない。
 罪の傷跡が。哀しみの記憶が。諦めの涙が。全てが、俺を追いかけてくる。
 ………何が「賭けに勝った」だ、この阿呆ジジイ。
 体中から力が抜け落ちて、ベッドに背中から倒れ込む。疲れた。
 日本に帰ってから毎日徹夜してたから、こんな夢を見たんだろうか。
「………”サヨナラ”、か」

 ―――帰れ……もう二度と此処へは来るな。お前は、あいつと結婚すればいいだろ?

 何の根拠もない噂だったのに、それを信じ切れなかったのは……俺だ。

 ―――真一くん……?! どうして? 何で、そんな事言うの?!

 割れる音。引き裂かれる音。崩れる音。音が多すぎて、全てを遮断した。あいつの、声も。言葉も。

 ―――”サヨナラ”だ、のだめ。俺はもう……お前には会えない。傍に、……いられない。

 あの痛々しい、涙を堪えたのだめの表情(かお)を忘れることは出来ない。忘れてはならない。
 彼女の清らかな心に抜かれることのない刃を突き立てたのは俺だ。

 ―――泣かないで。泣かないで、……真一くん。

 「サヨナラ」を伝えたい訳ではなかった。
 それでも、「何か」が壊れていくのを止める事が出来ずに、ただぼんやりとその風景を眺めている自分が、其処にはいた。
 手を離してはならないと。その瞳を逸れてはならないと。
 あれほど、あれほど、心に書き留めておいたのに。
 どうして人はその場に立ち止まっていることが出来ないのだろう。
 人は皆、進むか戻るかただそれだけで。その場にしゃがみこむ暇さえも与えてくれようとはしない。
 全てを飲み込んだ心は、崩れ落ちてしまった。
 のだめ。……俺たちは、何処で間違えてしまったんだろう? でも、今なら分かる。
 ”あの時”。あの日。

 お前はあの日、そのあと起こることを全て知っていたかのように不安そうだったよな。
 それでも、お前は俺の手を取ってくれたんだ。
 そして、その手を離したのも――――――俺だった。



 
幻影は、悪夢の如く近づいてくる。
それから逃れる術すら知らないままに。
 


 

 
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