昔私は、世界は一本の道だと思っていた。
そしてそれは空と海の境界線で繋がっているのだと思っていた。
私達は境界線に立っていて、音によって繋がれ、音によって届き、音によって一つになる。
……そうなれる、と信じていた。
ねぇ、真一くん。手を、先に離してしまったのは……本当はどちらだったのでしょうね?
ギアをパーキングに入れる。ゆっくりと足をブレーキランプから離して、真一くんは息を一つ吐いた。
それを反射した硝子越しに見つめながら、敢えて私はそれを黙殺し気づかない振りをした。
私には彼を”彼”に戻す義務がある。
それは、きっと私でなければいけないことだと思うから。
「……此処も、久しぶりデス」
「そうだな。しばらく日本での公演もなかったんだろ?」
かつて一度だけ使った事のあるホール。その時はR☆Sとの競演ではなかったけれど、繋がれ響き一つに溶け合う音楽を身体中で感じていた。
ねぇ。私は、それを貴方と一緒に作ることが出来る?
少しだけ、真一くんの歩調が緩くなったのに気が付いた。
いつも私の歩調に合わせて歩いてくれるけれど、それは違う速さ。
――私は、貴方をそのまま「仕事仲間」として迎え入れることは出来ない。
立ち止まっていた私を訝しむようにして真一くんが振り返る。「のだめ?」と名を呼ばれたが応えなかった。
そうして、初めて彼に僅かな不安が見え始めた。
……あぁ、やはり貴方は今も眠れぬ恐怖の夜を漂っているんですね。
「……折角のイケメン指揮者って有名なのに、随分と隈が酷いんですね」
「――これは、」
「まだ、夢を見ますか」
「……それだけが理由じゃないけど」
「そんなことは分かってます。そうじゃなかったら、貴方は今此処には立っていられないでしょ」
「………」
少しだけ、詰問のような口調になってしまった自分に内心舌打ちをした。
「真一くん。のだめは、大丈夫ですよ? 何より、”あれ”は貴方だけのせいじゃない。のだめも、悪いんです」
「……違う、俺が全てを遮断した。信じようともしなかった」
「そうさせたのは、のだめです」
「違う!」
必死になってのだめを庇う真一くんに、思わず眉間に皺が寄った。
悔しさなのか、怒りなのか、切なさなのか、哀しみなのか。
どうとも名の付かない感情が、私と真一くんの心の中には流れている。
「……まだ、怖いデスか?」
「…………怖くない、と言ったら嘘になる」
「夢は?」
「久しぶりだったけれど、……この間。徹夜が続いてたからそのせいだと」
廊下を進みながらぽつり、ぽつりと会話を交わす。
まるで、これまでのようじゃない二人みたいで、胸が鷲掴みされたかのように苦しくなった。
そうしているうちに練習室に辿り着いてしまって、焦りに満たされた心を持て余しているうちに真一くんがドアノブに手を伸ばす。
握ろうとして、――室内から机を叩く音が響いた。
「俺はそれじゃ納得出来ない!」
峰くんの、声だった。
どうやら少しだけ”あの時”の事を聞いたらしい。……清良さんかな、あぁ、黒木くんかも。
きっと彼は優しいから峰くんの勢いに飲まれて口を開いたのかもしれない。
でも、これは悪い突破口じゃない。千秋真一の本当の復帰の切欠になる。
「………」
案の定、中から聞こえる峰くんの叫びに真一くんは固まっていた。
その背中に寄り添うと、私の体温を感じたのかふっと見下ろしてくる。
「全部、――話してみたらどうですか?」
「え?」
「”あの時”のこと、”二年間”のこと。……”のだめとのこと”。全部」
「でも」
「真一くんの不安も、弱さも、何もかも。大丈夫、皆はきっと理解ってくれます」
そして、きっと皆で一緒に乗り越えようって言ってくれますよ。
だって、R☆Sは真一くんの原点なんだから。お母さんなんですよ? 子供は、親に甘えればいいんです。
……それは、決して恥ずかしいことでも可笑しいことでもなくて、自然なこと。
「でも、それじゃあお前だって」
「私が真一くんを不安にさせたのは事実デスよ?」
それは、私の罪。貴方が抱える傷と、罪を同じように私が背負っていかなければならないもの。
でもそれから逃げないと誓ったじゃないですか。
一緒に乗り越えて行こうって。その仲間が、増えるだけ。
「………だから、ね?」
「分かった」
真一くんがドアノブに力を込める。それを見つめながら、壁際に寄った。
私は出て行かない方がいいだろう。真一くんの言葉で、きっと皆に全てが伝わる筈。
それを私は此処で見ているから。聞いているから。
昔私は、世界は一本の道だと思っていた。
そしてそれは空と海の境界線で繋がっているのだと思っていた。
私達は境界線に立っていて、音によって繋がれ、音によって届き、音によって一つになる。
……そうなれる、と信じていた。
ねぇ、真一くん。手を、先に離してしまったのは……本当はどちらだったのでしょうね?
――けれど、今こうして手を取り合ったのは確かに二人なのだと、そう思えるんですよ。