「のだめを迎えに行く」と数十分前に千秋は練習室を出て行った。
最悪の指揮から一変、あいつは再び「千秋真一」に戻った。それでも、やっぱり違う。
だから、俺は言ったんだ。
「納得できない」
「……何が?」
案の定、敵――黒木くんは余裕のある微笑みで返してきた。
でも、もうそれじゃあ俺は止められない。
清良や真澄、メンバーが気にしているのは分かっていたけれど、口は閉じられなかった。
「千秋のことだよ! あいつが変になった理由が知りたい」
「彼は”変”になった訳ではないよ? 人間だから、変わらない筈がない。不変である方がおかしいだろ?」
「でも、それは千秋じゃない。あんな、ズレた千秋じゃねぇだろ」
「……どういう、意味?」
「今の千秋は何処かネジが一本吹き飛んだみたいにへなちょこだろ。あんな指揮、俺でも出来る」
「……」
「前から少しずつ思ってた。……清良だって何か知ってるだろ? でも、口を開こうとしない」
「―――」
突如会話に出された名に、清良が目を見開く。
隣に立っていた真澄ちゃんが、「清良? 何の事?」と矢継ぎ早に尋ねた。
でも、それさえも無視して俺は黒木くんに向き直る。
「教えてくれ。”二年間”、あいつに何があったんだよ?」
「でも、それは」
「俺は、……俺たちは千秋の仲間だ!」
「――ッ!」
「仲間が苦しんでるのに、放っておけるか! 迷惑だろうと何だろうと、俺は知るって決めたんだよ!」
分かったか! そう叫んだ峰は、肩で息をしていた。
事情を詳しく知らないメンバーも、固唾を呑んで状況を見守っている。
しばらく峰の瞳を無表情に見つめていた黒木は、ふと手にしていたリードを静かに置いた。
「……これから僕が話す事は、僕の視点から見たものだ」
「え?」
「だから、それが事実なのかは分からないし、何より千秋くんが君達には知られたくないことなのかもしれない」
「……」
「けれど、だからと言って僕が知っていい話でもなくて、たまたま僕が其処にいたから知っていた、という話だ」
それでも?
確認するようにじっと峰を見上げる黒木。「あぁ」と堅く返事をした峰を見据え、黒木は口を開いた。
容赦無しに顔に叩き付けられる雪を払いながら、黒木は帰り道を駆け足で進んでいた。
今年一番の冷え込みが続いている、とニュースのリポーターが零していたが、どうやら本当の事だったらしい。
だが、彼の心の中にはそんなことは欠片ほども残ってはいなかった。
オーボエをコートの中に抱き込み、彼はただひたすら街中を走り続けていた。
彼の頭には、今にも崩れ落ちそうな彼女の姿が残っている。
――お願いデス、黒木くん。……あの人を、助けてあげて。
どうして、と。何故、と聞き出すことは出来なかった。
それほどまでに彼女は疲れ果てていたし、きっと彼もそれ以上に抜け殻になっているだろうことは簡単に予想できたからだ。
とりあえず冷え切ってしまっていた彼女をターニャに預け、彼は仕事場から戻った格好のままオーボエを置いてくることも忘れて、再び冬の街へと足を向けたのだった。
少し前から、何となく予兆は感じていた。
彼の様子がおかしい。そして、それと平行するように彼女と彼の溝が深くなっていくのを。
決して、望んで出来た溝ではなかった。それを埋めようとして、無くそうとして、……無かったことにしようとして。
足下には水に濡れて使い物にならなくなった雑誌が捨て去られている。
『ピアニストNodame、編曲家ライザーと熱愛発覚?!』
誰がこんな記事など信じるのだろう。彼らをよく知っている者なら、誰でもこれがガセであることは分かるのに。
……けれど、当の彼女はそれを否定することはなかった。
そう、黒木たちを前にして、「これは嘘だ」と口を開く事はなかった。何も、応えてはくれなかった。
それは―― 一体何を示しているのか。
いや、考えるまい。今はそんなことをしている場合ではない。彼を捜さなければ。
彼女がただ一言呟いた場所に向かっている。何があったと聞いても「助けてあげて」と言うばかり。
雪はいつの間にか雨に変わっていた。
「………ッ」
角を曲がると、雨雲のせいか昼間なのにも関わらず、裏路地はまるで夜のように暗かった。
そこに彼はいた。
ただ、空を見上げて立ちつくしていた。
ぴくりとも動かない。その瞳は閉じられ、まるで……そう、まるで全てから遮断したからのように。
黒木は突然に怖くなって「千秋くん」と呼びかけた。その声は震えていた。
だが、彼は応えない。もう一度呼びかけたが、指先一本動くことはなかった。
それから、ふと陽気な白髪の指揮者が零した話を思い出し、ごくりと唾を飲む。
「――千秋くん!」
もはやそれは悲鳴に近い叫びだった。そうして、”ようやっと”彼は黒木の存在に気づいたようだった。
その瞳を見た黒木は、血の気が下がる様な気がした。こんな気分を感じたのは人生で初めてだった。
人間は、究極状態になるとこんな瞳をするのかと。
彼の瞳に光など見あたらず、彼は黒木を見て黒木を見てはいなかった。彼の瞳には、何も映ってはいなかった。
端正な顔立ちに、薄く張り付いた笑みが尚一層彼を希薄に見せている。
もう、何が彼をここまでしたのか、黒木には分からなかった。
「……なんだ、黒木くんだったのか」
そう言った千秋の声は、もはや感情の欠片も拾う事は出来なかった。
……彼と。そして彼女を繋ぎ止めていた”絆”は。
身も心も凍ってしまったパリの冬。全身雨に濡れながら千秋はそれでも其処に立っていた。
かちゃん、と無機質な音がして黒木は地面に視線を落とした。
水溜まりに沈み込んだのは、古びた一本の鍵だった。
そうして、黒木はようやく悟った。
―――消えたのは、ただひとつの、儚いモノだったのだと。