遠い日に頬に流れた物体
そして僕は孤独であったかもしれないと 14


 
 もう、何も聞こえないんだと思っていた。もう、何もかも遮断したのだと。
 全ては自分が切り離してしまったのだと。
 だから、自分の名を呼ばれた時は、思わず彼女の笑顔が浮かんだ。
 ……そして絶望に落とされるのを何度味わえば、この身は現実を受け入れるのか。

 誰もがいなくなって、雪が舞い降りてきた。その中を、行く当てもなく彷徨う。
 このまま消えて溶けてしまえばいい、と本気で思った。
 何かに縋りたい訳ではなかった。己の足で立っている自覚はあった。……望んでいたものではなかった
 けれど。
 裏路地に入って、ふと気が付いた。あぁ、もう”雨の音すら聴こえない”。そう言えば、”雪の歌声も聴こえ
 てはいなかった”んだと。
 ――俺の世界には、もう音は残って、ない。

   歩いていた足を止めて、そこは水溜まりだった。
   面倒だから、傘を差さなかっただけ。
   飲み込んだのは、雨のはずなのに何処か塩辛かった。
   流れていったのは、空の涙だけじゃなかった。
   軽く聞こえる足音に、振り返りはしないけど、誰が来てくれたのかはとても良く分かった。


 ”あめのなか”、俺を見つけてくれたのは天使でも悪魔でもなく、黒木くんだった。
「……なんだ、黒木くんだったのか」
「千秋くん」
「そうか、黒木くんが”まだ”居たか。まだ、全部切った訳じゃなかったんだ」
「……ちあきくん」
「あいつが言ったのか? 俺が此処にいる、って。……何処まで優しい奴なんだろうな、あいつ」
「――千秋くん!」
 がつ、という鈍い音と共に背中に衝撃が走った。続いて、肺が圧迫されたように咳が止まらなくなる。
 それさえも押さえつけるかのように黒木は千秋の襟元を掴み上げていた。
「どうして……どうして?! なんで、彼女の手を離すんだ! だって、千秋くんには彼女が必要だろう?」
「もう無理だ。戻ることは出来ない」
「何で……何で?!」
「時計の針は回ってしまった。俺は、あいつを追いかけることは出来ない……もう、会わない方が良い」
「………」
 ふと、今まで立っていた場所の水溜まりに鍵が落ちているのを見つけたのか、千秋の瞳が揺れる。
 今日初めて彼の感情を見たような気がした。……いや、今日じゃない。ここしばらく振りだ。
「渡せる訳がなかった。それでも、手を伸ばしたのは俺だった。掴んだのはあいつだった。……でも、」
 頬を伝うのは温かい雨だと思っていた。でも違う。黒木は驚愕の眼差しで千秋を見つめていた。
 千秋の視線は鍵から移ることはない。今、こうして黒木に掴みかかられていることさえも分かっているのか危うい。
 もう、流すことなどないと思っていた。遠い日に頬に流れた物体。
 今こうして身体中を濡らしていても、乾ききった心には一滴も響かなかった。

 何処で間違えてしまったんだろう。何を見誤ってしまったんだろう。
 手を繋いだのは、俺たちの覚悟と決意だったのに。

「――でも、その手を離してしまったのは、やっぱり……俺だった」

 弱々しく鍵に手を伸ばしながら、千秋の意識はそこで途絶えた。
 必死に己の名を呼ぶ叫びが聞こえたような気もしたが、それさえも千秋は”切断”した。
 そうして、千秋の世界からは完全に”音が消えた”。――投げ出された手は、鍵へとのばされたまま。



「俺はそれじゃ納得できない!」
 黒木が口を閉じた瞬間、峰は再び吼えた。その腕に縋り付くようにして清良が「止めて」と叫ぶ。
 今にも黒木を殴りそうになりながらも、峰は必死でその衝動から耐えていた。
「それじゃあ、それじゃあ……まるであいつらが、千秋とのだめが別れたみたいじゃねーか!」
「………」
「千秋に何があったんだよ? 何で、あいつは二年も世間から隠れなくちゃならなかったんだ!」

「―――俺がそう、シュトレーゼマンに頼んだからだ」

 「「千秋……」」
 突如として部屋に舞い降りた静かな声に、峰の動きが止まる。
 硬直からいち早く戻った黒木が、千秋に駆け寄る。
「ごめん、千秋くん。勝手に……」
「いや、いずれ分かる事だったし。俺にとっても、逃げる訳にはいかなかったし」
「……恵ちゃんは?」
「外にいる。行ってこい、ってまた追い出された」
「……………恵ちゃんらしいね」
 黒木が苦笑すると、千秋もまさに苦笑いという表情を浮かべた。
 その背後で腕に清良を掴ませたままの峰が立ちつくしている。
「……千秋」
「悪かった、峰。ずっと黙っていた。お前が知りたがってるのを気づいてて、黙ってた」
「………」
「――全く、どいつもこいつも。……お前も、あいつと同じ事言うんだな」
「あいつ?」
「のだめだよ。『仲間だから、皆で乗り切ろうって言ってくれる』。あいつはエスパーか」
「……俺様」
「何とでも言え。―――峰」
「ん?」
「”二年間”のことを話す。のだめとのことも、俺が何で姿を消したかも、全部だ」
「……」
「これはR☆Sの皆にも聞いてもらいたい。そして、もう一度考えて欲しい」
 本当にR☆Sは指揮者として千秋真一を望むのかどうかを。



 廊下に立ち、瞳を閉じていたのだめはゆっくりと笑みを口元に浮かべた。
 背中に回した指が微かに震えているのは気のせいだ。そう、頭にたたき込んだ。
 大丈夫、彼が、彼女が、傍にいてくれるだけで自分は強くなれる。無敵になれる。



 ――そうして、千秋は誰も知らない”二年間”を語り始めた。



 
昔話を、しようか。
 


 

 
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