まだ二人の心が、互いに届きあっていたあの頃。
いっそ、狂い咲いてみましょうか 15


 
 俺達が、初めて「仕事仲間」としてお互いを認め合ったのは秋も深まる11月。
 今では時折の客演だけの関係となってしまったが相変わらずのマルレとの、プロジェクトだった。
 気心知るマルレとの競演でのだめも精神的に落ち着いていた部分もある。
 それ以上に自分たちの実力を信じていたからこそ、俺達は「ゴールデンペア」の名を手に入れた。
 ――そうして、それから一年後、俺達は多忙の極みにある。
 単独での依頼も殺到する中、やはり「コンビ」としての依頼が圧倒的にある。
 それらを片端から埋めていくのは至難の業ではあったが、そこは長年お互いを見てきただけあり、すぐにオケと合わせることが出来た。
 指揮を振るだけではなく、ピアノを奏でるだけではなく、出張で教室みたいなものを開くこともあったし、楽曲提供をすることもあった。

 まだ二人の心が、互いに届き合っていたあの頃。
 俺達は、常に時間に追われる生活を送っていた。



「……これで終了」
「お疲れ様デス。珈琲飲みます?」
「あぁ」
 のだめが音楽院を修了後、俺と同じ事務所に入ったのを切欠に住居を同じにした。
 これまではあくまで”隣同士”を強調していたが、そんなものは今更だともはや悟りの境地にいる。
 ここ数年で人並みに珈琲を淹れられるようになったのだめは、ピアノの上に置かれた楽譜に目を向けた。
「むきゃ。これ、交響曲デスか?」
「そ。中学校での吹奏楽コンクールの課題曲、らしい」
「……凄いですね」
「指揮者の仕事じゃねぇだろ、どう考えたって」
 依頼を取ってくるのはやり手のエリーゼとスザンだ。受けた以上は完璧にこなすのが礼儀ではあるが、果たして「指揮者」の仕事はどれほどあるものか。
 ……まぁ、確かに今の世の中指揮を振るだけで食べていける奴は限られている。
 こうして楽曲提供できる自分だって、恵まれている方なのだから。
 珈琲を飲み干し、クローゼットから着替えを出して風呂に入ろう、と立ち上がる。
「―――真一くん?」
 ふと、急激に現実に引き戻されたような気がした。少しのギャップに頭が揺れる。
 例えるならば、カメラのピントを急に変えたような。
 え? と振り返ると、少しだけ不思議そうなのだめの顔があった。
「何?」
「何……って、電話。鳴ってますよ?」
「え?」
 真横にあるチェストに視線を落とすと、携帯が着メロをけたたましく鳴らしながら俺を見上げていた。
 ………全く耳に入らなかった。
 慌てて着替えを放り出し、携帯へと手を伸ばす。通話を始めた途端、エリーゼの怒鳴り声が耳に響いた。
 携帯していない電話は携帯じゃないだの小言を飛ばすエリーゼを宥めながら内容を聞き出すと、やはり仕事の依頼だった。とりあえず今回の仕事が終了した事を伝え、一応受けるかどうするかを考えてみる、と答える。
 答えながらも既に返事は「Yes」なんだろうな、とぼんやり考えながら会話をしているとのだめが着替えを手に持って洗面所へと向かった。
 どうやら、準備をしてくれるらしい。
 「悪い」とジェスチャーで謝ると、ニコニコ笑って首を左右に振る。

 ようやく手に入れた安穏の生活。のだめがいて、俺がいて、音楽がある。
 俺は、おそらく「幸せ」っていうやつを、手にした気分でいたのかもしれない。



 その仕事でのだめも同伴することになり、俺はその時初めて奴に会った。
 今や売れっ子スターとなった編曲家。
 その甘いマスクとトークテクニックで女性を魅了する、と話題の男。
 ――ライザー・クリュシュエル。
 その蒼い双眼が、俺達を映し出していた。



 
警鐘は鳴る。
誰の耳にも、届きはしないのに。
 


 

 
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