「おかしい」と感じ始めたのはいつだっただろうか。
指揮者にとって、……いや、音楽家にとって耳は命だ。だからこそ無意識レベルでも常に気にしている。
それなのに。
足下が崩れていくような感覚がした。血の気が下がるような。
のだめがシャワーを浴びている音がする。足下に広がった皿の破片をぼんやり見つめて俺は立ちつくしていた。
俺の生活の中で、一日に一つだけ、”音が消えている”。
「……ふむ、音が消える、ですか」
「はい」
「最初が携帯電話の着信音、次が水道から流れる水、隣の部屋から聞こえていた掃除機、……昨日は皿の落ちる音」
「その日でバラバラなんです。昨日まで聞こえていたのに、その日だけ聞こえなかったりして」
「職業は、指揮者をなさってるんですよね?」
「ええ。なので、人よりも聴覚には敏感な筈なんですが」
「……なるほど」
目の前に座る医師は、眉間に皺を浮かべながらカルテを見下ろした。
「問診では特に以上は見られません。MRIをかけてみましょう……脳にストレスがかかっているかもしれません」
「宜しくお願いします」
病院を出て見上げた空は、厚く憂鬱な灰色の空だった。暗くもなく、されど明るさを見い出すことは出来ない空。
闇よりも薄明かりの方が恐いのだと、初めて知った。
「おかえりなさい! 真一くん」
「ただいま。今日は悪かったな、仕事は大丈夫だったか?」
「ハイ。ライザーさんがしっかりやってくれたので」
「任せきりにしたのか」
「……ちゃんと意見は述べましたよ」
「はいはい。飯、まだだよな? すぐ作る」
「やた! のだめ、ピアノ弾いてますね」
少し風邪気味かも、と朝に言っていた真一くんが病院から帰ってきた。
なので今日の仕事はのだめだけで行ってきた。今回初めて組む編曲家のライザーさんは、本当に腕前が凄い。演奏家にもなれるんじゃないかと思うほどの技術を持っている。真一くんにも負けないくらいの知識も持っているし、何より女性も扱いが上手い。
真一くんは己が目指すもののために媚びを売ったりはしないけれど、ライザーさんはそれを上手く乗っているところがある。
処世術に長けている、と言ったらそれまでになってしまうかもしれないけれど、その場の人間を自分側に引き込む術を知っている人だ。
エプロンを腰に巻いて、キッチンへと向かう真一くんの後ろ姿を見る。
ちらり、と視線をずらすと壁にかけられたカレンダーをみると、9月10日に大きく赤丸が入っていた。
前にのだめが印をつけたら真一くんが呆れたように笑っていたのを覚えている。
今年は、何処かレストランとか、連れて行ってくれるのかな。最近忙しくて家でもちょっとすれ違いの日々だったし。
「……真一くん?」
あれ?
「真一くーん」
あれれ?
いつもならちょっと呟いただけでも「どうした?」って振り向いてくれてるのに。
料理の音が大きいのかな? 風邪気味だから頭がぼーっとするのかな。
少しだけ不安になって、真一くんのすぐ傍にいって服をつんつん、と引っ張ってみる。
「――おわっ」
急にのだめに気づいたような真一くんが、苦笑を浮かべる。
「悪い、気づかなかった。どうした?」
「……具合悪いんデスか?」
「いや、大丈夫」
「でも、さっきから何度も呼びました。頭痛いんデスか?」
「―――大丈夫だよ」
のだめは気づいてあげることが出来なかった。
「何度も呼んだのに」って言った瞬間、少しだけ傷ついたように、不安になったように見開いた彼の表情とか。
大丈夫だよ、って答えてくれた声が少しだけ震えていたとか。
のだめの頭を撫でてくれた彼の手が、一瞬宙で止まったとか。
彼の苦しみはのだめには全部は理解出来てはいなかったかもしれないけれど、それでも傍にいることは出来たかもしれないのに。