罰がなくても人が犯さない罰が、この世界に幾つあるだろう
いっそ、狂い咲いてみましょうか 17


 
 罪がなくても人が犯さない罪が、この世界に幾つあるだろう。
 お互いがお互いを知りすぎていて、甘えていた。
 「大丈夫」と、「まだ繋がっている」と、決して根拠のない想いを抱えて時間に追われていた。
 ねぇ。
 いつから、私達は互いの瞳を見て、話をしなくなったんだろう?
 貴方が自らを責めて罪人だと嘆くのなら、私は――



「……MRIでも異常は見られません。他の身体機能も正常ですし……精神的なストレス、としか」
「精神的?」
「過労、人間関係……挙げればキリがありませんが。ストレスが聴神経に悪影響を及ぼし、聴力が低下しているのではないかと」
「……改善は見込めますか」
「私達としても、このような症例に会うことは滅多にありませんので。……仕事から少し、離れてみてはいかがですか?」
 疲れていた。無性に身体がだるくて、公園のベンチに座り込んだ。
 一日に”消える音”は徐々に増えていた。オケの練習中に振っていても”消える”ことがある。
 それでも、まだ誰にも気づかれていないのは俺の意地だろうか。
 ……それが更に状況を悪化させているのかと思うと、思わず自嘲の笑みが零れた。
 時計を見下ろす。ライザーを交えての会議開始時刻が迫っている。行かなければ。
 どうもあの男は好きになれない。仕事はする。完璧を目指すところは、俺と似ていなくもない。
 それでも、あいつの……のだめを見る視線を好きになることは出来ない。
 それが醜い「嫉妬」だったと分かっていても、胸に巣くう暗闇を振り払うことが出来ずにいた。
 近くで高らかなクラクションが鳴り響く。

 ――俺はいつまで、こうして音を享受することが出来るんだろうか。

 漠然と、身体の震えが迫ってきた。


『……じゃあ、それでお願いするよ』
『了解デス。主題の後の、弦楽との合わせはスローペースですか?』
『そうだね。あくまでメインは弦楽で。ピアノはメロディに絡まるように、一筋の風のように』
『ふぉ。詩人デス――「真一くん!」
「遅れて悪かった」
 部屋に入ると、ライザーとのだめが隣り合って座っていた。編曲家とピアニストの会議。
 端から見れば、確かにそう見える。でも、それじゃあ指揮者の俺がいる意味がないんじゃないか?
 しかもやたらとライザーがのだめに近づいているように見える。
 ……でも、まるで俺の方が邪魔であるかのように、のだめの隣で俺を見る瞳を直視することが出来ない。
 苛々する。
 抱えるものが多すぎて、頭がついていかない。仕事はあるのに、休息を与えられることがないなんて。
 溜息をつきながら珈琲を淹れようとキッチンに向かう。薬缶を準備していると、後ろからトコトコとのだめがやって来る。
 何だかんだ言って、俺を慕っているのが果てしなく嬉しい。それだけで気分が浮上してしまうのは現金だろうか。
「―――くん? 真一くん?」
「え?」
 ふと振り返ると、のだめが怪訝そうな顔をしていた。ざっと、血の気が下がる。
 ……まさか、また。
 慌てて壁に掛けてある時計を見上げる。さっき、キッチンに入る前からもう……四分。
 これまでで最長だった。”音が消えている時間”が。どうして。これまで、一瞬だったじゃないか。
 長くても三十秒あるかないか。それが、分単位になるなんて。
 ………のだめに知られる訳にはいかない。のだめだけじゃなく、誰にも。
 どうしようもない動揺が身体中を駆けめぐっていく。それを何とか鎮圧しようとして、視線はのだめに戻る。
「真一くん? のだめの話、聴いてた?」
「え――ぁ、」
 のだめの向こう――延長線上に、ライザーの顔が見えた。
 彼が浮かべていた、まるで勝利のような笑みに、心が暗闇に包まれていくのを感じた。
 「止めろ」と冷静な自分が居る。それさえも暗闇が押しつぶしていって。俺の口は勝手に動いていた。
「……あぁ、分かってる。聞こえてるに決まってるだろ」
「良かった。じゃあ、のだめ、戻りますね」
「おー」
 パタパタ、とスリッパが音を立てる。それを聞きながら、ぎり、とキッチンの縁を握りしめた。
 どうしてあの時、「もう一度言ってくれ」と言えなかったのか。
 どうしてあの時、下らない嫉妬にまみれて強がったりなどしたのか。
 どうしてあの時、――音は消えたのか。
 問うても問うても答えを見つけ出す事が出来ない。そうして、全ては崩壊に進んでいったんだ。
 のだめが、あいつが何を求めていたのかも、何を我慢して耐えていたのかも、俺には全く分かっちゃいなかった。
 俺は自分のことしか見えてなかった。のだめなら、きっと手を差し伸べてくれただろうに。
 その時の俺の頭にはライザーの笑みだけがこびり付いていて、のだめが何を言ったのかさえも残っちゃいなかった。
 あいつの言葉だけは、逃してはならなかったのに。

 ケルトが騒ぎ出して、俺はようやく固まりかけた身体を動かした。
 視界にも入ってきてはいなかったのだめが買ってきた壁掛けのカレンダーは、9月8日をさしていた。



 
擦れ違いは音を立てて。
それさえも俺には届かない。
 


 

 
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