何となく、「離れている」という感覚があった。いつからだろう? ゴールデンペアになって、少し経ってから。
私には私の仕事があって、彼には彼の仕事があって。そして、二人の仕事がある。
常に時間に追われるようになって、家にはどちらかが残されて、そして時には無人になることもあった。
そうした中での生活を望んでいた訳ではなかった。でも、「売れる」ということは、「働く」ということはそういうことなのだと。
そう、諦めている部分があった。
何より彼には完璧を求められることも、求めることも”当たり前”だったから、妥協は許されない。
それは恋人ではなく、仕事仲間として。
一分でも一秒でも早く、その”位置”に、”立場”に立てるよう願って切望していたのは私の方だったのに。
合わされることのない視線が。
一人で夕食を食べる冷たい家の中の空気が。
滅多なことでは鳴らなくなってしまった携帯が。
今の私達を、顕著に表しているんじゃないか、って。そう、思った。
分かってる。それを、望んだ訳ではなかった。彼は不器用だから、きっと上手く言葉に出来なかっただけ。
いつだって行動で示してきてくれた。時間に追われ、仕事に追われ、それが出来なくなってただけ。
……でも、でも。
貴方は「分かってる」って言った。頷いた。だから、今日だけは我が侭を言わせて? と神様にお願いした。
握りしめている携帯が鳴らされることはない。ぽたぽた、と振り落ちるのは雨? それとも、涙?
身体中が冷たくなって、指も動かなくて、それでも携帯を握りしめていた。
もしかしたら仕事が急に入ってしまったのかも。抜けられない用事があって、それで連絡できないのかも。
それか、まるで私のように携帯の電源が落ちてしまった?
時計台を見上げる。上に向かっていた筈の短い針は、もう下に落ちていた。
雨の滴が、眼の中に入ったようでジン、と痛くなった。
『……あの、明後日はのだめの誕生日なんデスよ』
『へぇ! おめでとう。ディナーをご馳走したいところだけど……やっぱりチアキと?』
『そう、出来たらなって』
『? どういう意味?』
ライザーさんは怪訝そうな顔をして、首をかしげた。
それがとても優しくて、「駄目だ」とブレーキをかけているのに口が止まらなかった。
……そう、私は寂しかったんだ。自分で望んだにも関わらず、冷たい世界に取り残されてしまった愚かさに。
優しく笑ってライザーさんは『大丈夫』と励ましてくれた。
そして、真一くんが帰ってきて。ちょっと空気がぴりぴりしていたけれど、それでも傍にいったら微笑んでくれて。
だから、意を決して言ってみたんだ。
「……明後日、のだめの誕生日なんです、けど。でーと……したいデス」
駄目、って言われるのが恐くて、一気に喋った。真一くんの顔を見ることなく。それは恥ずかしかったせいでもあるけれど。
待ち合わせの場所、時間。時計台が見える広場で、12時に。
反応が無くて真一くんの名を呼んだら、はっと気づいたように彼が私を見る。
……聞いてた、よね?
「……あぁ、分かってる。聞こえてるに決まってるだろ」
「良かった。じゃあ、のだめ、戻りますね」
「おー」
パタパタ、とスリッパの音を立ててリビングに戻ると、ライザーさんが微笑んでいた。
真一くんのように優しいけれど、やっぱり何処か冷たいような微笑み。
『良かったね、チアキ、了承してくれて』
『むきゃ。日本語、分かるんデスか?』
『少し。……以前、講習に通ったことがあるんだ』
もし、チアキに振られたら僕が付き合ってあげるよ?
苦笑混じりに言われたジョークに、同じように苦笑して答える。
『それは浮気推奨の台詞デスか? そーゆーのは、フリーのもっと可愛い子に言うべきデスね』
『……こりゃ一本取られた。チアキに妬けるよ』
あの時は、まだ笑っていられたのに。まだ、戻れると……笑い合えると、信じていたのに。
何度も時計を見上げる。時間は戻らない。どうして。戻って。それ以外、何も望みはしないのに。
くらり、と意識が揺れる。ぼんやりと頭が熱くて、一歩足を踏み出した。それで体重を支える。
「しん、い……く」
がくん、と重心が下がるのと同時に、後ろから力強い腕が伸ばされる。その温かさに、彼であることを期待して振り返る。
『ライ……ザー、さん』
『言っただろう。振られたら、俺が付き合うって。………何で、呼ばないんだよ』
『しんいちく…は?』
『―――ッ、あいつのことなんか待ってるなよ! あいつは今もオケで振ってるよ! 約束なんか、ちっとも頭に残っちゃいなかった!』
『…………』
がらがらと崩れている音が聞こえる。引き裂かれていく音が聞こえる。
手を離したのは、どっち?瞳を伏せたのは、耳を閉じたのは、どっち?
涙を止めることが出来ない。私が欲しかったのは。この、抱きしめてくれる温かさ?
それとも、「繋がっている」のだと信じるだけの、細い細い糸の上で綱渡りをしているこの感情?
瞳はまるで反射のように時計台に向かった。
それを見て、ライザーさんは尚強く私を抱きしめる。もう、痛いとも思わなかった。
『待ち合わせ、してるん……デス…12時に、って…』
『もう半日経ってるじゃないか! こんなに冷えて……其処までして、あの男がいいのか? 俺なら――』
私の肩に顔を埋めて、ライザーさんは呻くように呟く。
『こんな気持ちになったのは初めてだ。恋愛なんてくだらないと思ってた……君に会うまでは。君は、これまで出会ってきた女性とは違う。君が泣いていると、苦しんでいると……俺だって辛い。助けてやりたくなる。護ってやりたくなる。……もう、止めろよ』
最終宣告のように、ライザーさんの声が頭に響く。熱のせいで、頭がぼんやりしていた。
『俺にしろよ……俺なら、誕生日の日に、デートをすっぽかしたりしない。寂しい想いなんかさせない。時計の針ばかり、見させたりしない』
『………』
『気付けよ、自分の”幸せ”に目を向けろよ。……時計の針は回るんだ、貴女がどれだけ耳を塞いでも』
『―――』
『人は立ち止まることは許されない。常に歩き続けるか、後退するか、どちらかだ。あいつは、君の手を――離したんだ』
手を、離した。
それは何を表すの?
手を、離した。
”サヨナラ”?もう、一緒に歩けないの?
手を、離した。
もう、隣で……笑い合えないの?
意識を手放す瞬間、脳裏に浮かんだのは果たして「のだめ」と微笑んでくれた彼の笑みだったのか。
私は、それすら覚えてはいない――