もう眠ってもいいのだと思う。俺の仕事は、思うよりもずっと早く終わったのだから。
いっそ、狂い咲いてみましょうか 19


 
 ――のだめが倒れた、と連絡を受けたのはいつだったか。
 慌てて病院に向かって病室に辿り着いた時、青白い顔をして眠っているあいつの隣にいたのは。
『……やぁ、チアキ』
 何でお前が、という言葉は発せられることはなかった。気づくと蒼い瞳から俺は逃げていた。
 そして今、家へと歩いている。


 あぁ、疲れた。それが、今の感想だろうか。……のだめの荷物をまとめないと。
 未だにプリごろ太がないと騒ぎ出す大人なんていうのはあいつだけじゃないのか?苦笑が漏れる。
 ふとソファに座り込んで、ぼんやりと天井を見上げた。
 この家に、こんなに長い時間いるのはどれくらいぶりだろう?酷い時は半年以上居ない。
 そうしている間、あいつは一人で此処に居たのだろうか?
『チアキ。そろそろ、彼女を解放してやってくれないか』
『……解放?』
『君は彼女を縛り付けている。彼女は、彼女だけの”幸せ”を掴むことが出来ない』
『何の権限があって、』
『では問おう。君は何の権限があって、彼女の”幸せ”を自分の傍にいることだと決めつけているんだ?』
『―――』
 長い、長い道のりを全力疾走で来た気がする。俺は、果たしてあいつのことを見てきたんだろうか?
 自分のことばかりに目を向けていて、あいつが決して他人には見せない涙を幾度見逃してきたんだろう。
 互いに高め合える存在。互いを補える存在。………それは、いつまでの俺達だったんだろう。
 息が切れたのは俺だ。いつの間にか立ち止まって、先を目指す事から目を背けていた。
 ”音が消えた”のは、本当は俺がそう望んでいたんじゃないのか?
 枷にはならないと決めていたのに、今の俺はあいつにとってもはや枷でしかなくなってしまったんじゃないか?

 病室で眠る彼女の手を堅く握りしめていたのは、―――そう、俺じゃなかったんだ。
 俺じゃ、もう、あいつの傍にいることは出来ないんだ。赦されないんだよ。

 ふらり、と瞳が閉じる。何処かでがらがらと崩れる音がした。
 それが何故か”音が消えていく音”なんだと感じている自分がいた。無音の世界へ。何も、求めることのない世界へ。
 あぁ、疲れた。俺はもう、走れない。走る資格がない。
 脳裏に浮かぶのは、繋がれた遠い二本の手。俺が辿り着けない場所。
 ……もう眠ってもいいのだと思う。俺の仕事は、思うよりもずっと早く終わったのだから。
 ――音が、壊れた。



『……彼は?』
『まだ言ってるのか? 今日も仕事だよ。君が倒れたからね、彼が動いている』
『行かなきゃ』
『その身体で? ドクターストップがかかっている、今は安静に』
『……でも、』
『メグミ』
『…………ライザー、さん』
『彼は分かっている。己の限界を、彼は悟っている』
『なに、を』
『彼は生き急ぎすぎた。彼は聡明だ、故にもう走れない事を悟っている。それを止める術が、資格が、力が君にはあるかい?』
『…………』
 分からない。でも、それではいけない。
 だって彼から”音楽”を奪ったら、彼はどうなるの?
 でも、彼から瞳を逸らしたのは、彼を見ずに自分の事だけを考えてたのは、……私じゃ、ないの?
『とにかく君は少し休むべきだ。大丈夫、僕が傍にいるから』
 壊れた音は、もう二度と元には戻らない。



 一週間後、黒木くんが蒼白になって一冊の週刊誌を持ってきた。
 それであいつがまだ検査入院をしているなんて知った、なんて言ったらお笑い草になるだろうか。

 ――――ピアニストNodame、編曲家ライザーと熱愛発覚?!

 その記事では、あいつの入院先にライザーが甲斐甲斐しく通っている事。
 まるで”幸せ”を描いたように、二人が居る事。
 ライザーが記者団に、暗にあいつと恋愛関係にあることを仄めかした事。
 それに大してあいつの回答はまだ得られてない事。
 大体要約すると、そんな事が書かれていた。おそらく、病院内で隠し撮りにでもあった写真では、あいつがライザーの隣で笑っていた。
 幸せそうに。………あぁ、こいつのこんな笑顔、もうどれくらい見てなかったんだろう?
 目の前でこれはどういう事なのかと喚く黒木くんの言葉はほとんど耳に入ってなかった。
 ”消えていた”訳じゃない。”流していた”だけだ、というのは言い訳だろうか。
 とにかく、恵ちゃんに確かめてくるから! そう叫んで瞬く間に黒木くんは走り去って行った。

 哀しい、とか。切ない、とか。そういう感情は浮かんでこなかった。
 あったのは、言うなればぽっかりと空いた空虚と、何処か納得したような重み。
 確かめる意味もないだろう?
 だって。
 ……これが、あいつの”答え”なんじゃないか。そうだろう?――のだめ。

 壊れた音は、消えた音は、離れた音は、もう二度と元には戻らない。
 それを、俺は誰よりも何よりも分かっていた筈だったのに。
 走り去る黒木くんの背中に、ずっと昔眺めるしか出来なかった大きな背中が重なった。



 
何も出来ず、欲しがることも出来ずに、
ただ見送っていただけの背中が。
 


 

 
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