崩壊というのは、一度始まると「止まる」と言う事を知らないのだ、と初めて知った。
それを何処か他人事のように眺めていた俺は、もしかしたら壊れていたのかもしれない。
だから、”彼”に招聘された時も、特に感じるものはなかったんだ。
「……呼ばれた理由は、分かっているでショウね」
「―――」
「アナタ、何をしたか、分かってマスか?」
「―――」
「見なさい。これが、アナタの実力デス」
ばさり、と広げられた週刊誌には、あいつではなく――俺の写真が載っていた。
それを感情無く見つめ、ふと見開く。
「ホールから、逃げ出したそうデスね」
「……ぁ」
「指揮の途中、突如叫びだしてそのままホールから飛び出した、とありマス」
「……っ、…」
「目を背けることは赦しまセン。見なさい、これが今のアナタの実力デス」
音が消えたんだ。もう、ほとんど聞こえない。車のクラクション、赤ん坊の泣き声、ドア鈴も。
きっと報道陣が駆けつけていたであろう、家の電話のコール音だって。
目の前で俺を真っ直ぐ見つめる、この人の声も、いつまで聞こえるんだろう?
そんな無音の世界に突き落とされて、不思議そうに俺を見る団員達の視線から逃げたかった。
だから、逃げた。至極、簡単なことじゃないか。
壊れたんだ。均衡はあまりにも儚すぎて、もう取り戻せなくなってしまった。
それを、どうしたらいいと、貴方は言うのですか?
「チアキ、貴方……耳が聞こえていませんね?」
「え?!」
背後でエリーゼが息を呑むのが分かった。……彼女もまだ、聞こえるのか。
「”音が消えている”のではないですか?」
「……その、通りです」
そう、発音した筈だ。俺の”声”が何処か掠れて聞こえない。
反射した硝子に映ったエリーゼの口がぱくぱく動いている。眉をしかめているマエストロの表情を見ると、いつものようにきんきん喚いているらしい。
……あぁ、エリーゼの声も”消えた”のか。
本当に他人事のように感じている俺を見たマエストロは、ふぅと息を吐いた。
「何故、何故……もっと早く言わなかったのですか」
「そうしたら、まだ、何か手があったかもしれないデショウ?」
「彼女の手さえも手放して……貴方には、何も残らないじゃないデスか」
「生きてる時にたくさんの人に囲まれていたのならそれで良い。思い出がたくさんある。けれど生きてる時に孤独だったら死ぬ時も孤独なのは少し怖い。……いいえ、それ以上に寂しい」
「貴方は優しすぎる。自分の傷を抉って何の得があるというのデスか。己の幸せ無しに、彼女の幸せを取り戻せるとでも思ったのですか」
「この老いぼれに、道を遺しておいてくれなかったのですか?……そんな、光を失いかけた瞳で、何を見ているのデスか」
マエストロの瞳が揺れている理由さえも気づかなかった。張り付いていた口唇から、言葉が零れ落ちた。
「苦しい、んです。もう――俺は、俺を止められない」
「……チアキ」
「”音が消える”んです。手から零れ落ちていく。それを追う資格を、俺は持てない」
「………」
「だから、俺は羽ばたくあいつを、繋ぎ止めておいてはいけない。手を、離さなければならない」
「……………ならば、チアキが望むまで音楽に触れずに生きてみなサイ」
「え?」
「真の音楽家であれば音が無いことは死よりも辛い拷問デス。その苦しみを、身に持って感じたならば此処に戻ってきなさい」
「マエストロ、」
「此処は貴方の居場所デス。貴方以外に、私は此処を渡すつもりはありマセン。だから、帰ってきなさい」
「……」
「――でも、その前に」
そう言ったマエストロの顔が、酷くくしゃくしゃになったのを今でも覚えている。
これまで見た事がない程、辛そうな泣きそうな顔だった。そんな表情をさせてしまったことを、後悔した。
携帯をぼんやり見つめる。何度通話ボタンを押そうとして、逡巡していることか。
――でも、その前に”彼女”に”サヨナラ”を言ってあげなサイ。
それを彼女が、貴方が望んでいようと望んでいまいと、告げなければ彼女は歩むに歩み出せない。
それは貴方がすべき最後の仕事デス。
事務所を出て公園に入る。老夫婦が連れ添ってゆっくり散歩していた。
彼女には、そんな幸せを。素朴で、小さな、されど何よりも大切な幸せを。歩んで、欲しいから。
……それが、例え俺が隣にいることのない幸せだったとしても。
Trrrrrrrrr..............
『……ハイ』
あぁ、何て優しい響き。消える前に。記憶に刷り込む時間をくれ。
それさえあれば、きっと俺は何とか生きていけるだろう? 彼女の笑顔と、自分の名を呼んでくれた声があれば。
例え、世界から全て音が消えようとも。
ゆっくりと、息を吸って吐く。
「……のだめ?」
『――しんいち、くん?』
「久しぶり。……体調はどうだ?」
『もう、大分回復しました。大丈夫。……しんいちくんは?』
「順調」
きっと、彼はあいつに俺のことを知らせてはいないだろう。なら、知らせる必要はない。
「……あのさ、のだめ」
『ハイ?』
「明日、時間、あるか?」
『明日……? 先生に聞いてみないと、デスけど多分大丈夫だと』
「あのさ、」
『……』
「―――最後の一日デート、しないか」
『………』
「一日。俺に、時間……くれないか」
『ハイ』
「じゃ、また明日」
『……ハイ、また、明日』
初めて「デート」なんて言って誘ったんじゃないだろうか。これまでデートなんて何度もしてきたのに。
何もしてあげられなかった。
だから、最後に一つだけ、俺が彼女にしてあげられる事をしてあげたいと思う。
それが正しいとか間違っていたとか、きっと俺達には関係のないことで。
壊れていくのを、崩れていくのを止める術を俺達はあまりにも幼すぎて知らなかったから。
だから、ありのままの現実を受け止める事にしたんだと。
――― 一日だけだから。
これがきっと、俺の出した答えで、あいつが出した答えだったんだと、思う。