「……ちょっと遅れちゃいマシタ」
「や、俺も来たとこだったし」
久しぶりに見たあいつは、少し痩せたようだった。でも、あの日病室で見た肌は走ってきたためか少し上気している。
しばし互いの瞳を見つめて、ゆっくり俺は左手を差し出した。
のだめは、ぼんやりとそれを見つめる。そして、微かな笑みを乗せてそれを取った。
「じゃ、行くか」
「ハイ」
それが最後だと、互いが知っている。もう、こうして歩くことは二度とないのだろう、と漠然と感じている。
それでも俺達は手を取った。今日だけは、共に隣を歩こうと。
もしかしたら、それは覚悟と、決意と、―――ほんの少しの期待の顕れ、だったのかもしれない。
パリの空気は、今年一番の冷え込みだと、朝のニュースで伝えていた。
その空気の中を、俺達は一歩踏み出した。
デート、と言っても大した当てもなかった。本当に、街をブラブラ歩き回っただけ。
いつも何処かに出掛けていた時は、コースまかせで少しでも贅沢を、と考えていた。
お金も使わない、何処か目標がある訳でもない、そんなデートを久しくした事がなかったな、と思った。
のだめが興味を持ったお店を何となく眺めてみたり。
丁度腹が減ったからと、目の前にあったカフェに気まぐれで入ってみたり。
でも、その時間は迫っていて。
外の景色を見ながらさり気なく右手をポケットの中に入れた。冷たい金属の感触。
きっと、俺の最後の砦。戻るなら、最後の切り札。――古びた、一本の鍵。
「……もう、こんな時間か」
そう、押し出すように呟いた。
「……もう、こんな時間か」
ぴくり、と身体が動いたのを気づかれなかっただろうか。私は、平静を保つように息を細く吐く。
手に持っていたカフェオレのカップを意味もなく回してみる。指が震えているのを誤魔化している訳じゃない。
ライザーさんには、何も言ってこなかった。きっと彼は仕事に出ているのだろう。
あの週刊誌を偶然見掛けた時は言葉が出てこなかった。
何を言っているのだろう。何が書かれているんだろう。これは、誰が言い始めたことなんだろう。
けれど、何を口に乗せようとも事態は勝手に歩き出していて、私が口を開けばきっともっと大変な事になるだろうと思った。
それを私に止める術はなくて、だからといってライザーさんに迷惑を掛ける訳にはいかなくて。
そして、こうして目の前でブラックを飲んでいる彼も、それを読んだのだろう。
――でも、何も言わない。
それが私の答えだと思ってる。何も言わないことを、私は彼の答えだと思っている。
きっと、最初からそうであることが答えだったのだと、思う。
「行くか」
「ハイ」
夕方になって、ますます肌寒くなった。いつもよりも厚着で病院から出てきたけれど、それでも風が吹く度に身が竦む。
二歩前を歩く彼の背中を見つめる。いつだってその背中を見つめて走ってきた。
でも、それは私のためだったんだよね? 私をその場所へと引き上げようと貴方は走って走って。
そして、息が――切れてしまったんだ。
顔に、ぽつりと冷たい感触が落ちてきた。
雨かな? と空を仰ぐと、それは白い空の唄声だった。
前に彼にその事を教えたら、呆れながらも「お前らしい」って微笑ってくれたっけ。
……あぁ、駄目だ。
私には泣く資格なんか、ないのに。苦しんでるのは、彼なのに。解放してあげなきゃいけないのは、私なのに。
胸が締め付けられるような痛みがこんなに痛いなんて、知らなかった。
息も出来なくて、服をぎゅ、と掴む。前を歩く彼の背中が滲んだ。
――戻れる? 私達は、まだ戻ることが出来る……?
「……真一くん」
風に溶け込んでいきそうな程の、小さな声。けれど彼は振り返らない。
「真一くん」
ねぇ、貴方は今、何を見てるの?私には、それを一緒に見ることは出来ない?
「真一くん」
振り返って。私を、もう一度だけでいいから見てよ。私の”声”に答えて。応えて。
「しんいちくん」
彼は振り返らない。それが、やっぱり、貴方の……答え?
のだめが後ろを歩いてきているのか、よく分からない。でも、気配はするからいるんだろう。
雪がちらついている。……そういえば、前にのだめが「空の唄」とかいう話を聞かせてくれたことがあったな、なんて考えた。
あの頃はまだ同じ場所に立っていたんだろうか。あいつの”声”が、聞こえてたんだろうか。
ほとんど、無音と化した世界で一人ぼんやり考えてみる。
―――もし、まだ戻れるのなら。
ポケットの中の冷たい鍵を取り出す。それを右手にしっかりと握りしめながら小さく息を吐き出した。
……間に合うのなら。俺に、まだ手を離さなくても良い、というのなら。
その時は。
振り返った先で、「のだめ」と掛けようとした声は出てくることはなかった。
思ったよりもずっと遠くで、あいつは立ち止まって、その瞳に涙を溜めて、それでも微笑っていた。
その時悟ったんだ。感じたんだ。
……もう、無理なんだ、って。
「……のだめ、もう、俺には会いにくるな」
「え?」
滲んだ先の真一くんの声は掠れていた。でも、それ以上に放たれた言葉が強くて思考が停止した。
「もう、デートの終わりの時間だ。帰れ……もう二度と俺の、……此処へは来るな。お前は、あいつと結婚すればいいだろ?」
「……え?」
彼は知っている。分かって、言っている。何のため? 誰のために?
「それが、お前の”幸せ”だろ? 俺が傍にいることでお前の未来に囲いを作ることだけはしたくない」
「真一くん……?! どうして? 何で、そんな事言うの?!」
「――のだめ」
「……ッ」
「”サヨナラ”だ、のだめ。俺はもう……お前には会えない。傍に、……いられない」
何が。何が、彼をここまで追いつめたのだろう。
誰が。誰が、彼をここまで疲れ果てさせたのだろう。
彼の身体の線があまりにも儚すぎて、駆け寄りたくなる足を必死で押しとどめた。
彼の瞳には迷いは見られない。……それはきっと、彼が望んでいること、だから。
あぁ、神様。
「泣かないで。泣かないで、……真一くん」
「……泣いてないよ」
さぁ、お帰り。君が君らしく在ることが出来る所へ。君の”幸せ”があるべき所へ。
「のだめ。……”サヨナラ”」
「……さよ、なら」
彼の微笑みに耐えきれなくなって、振り返って走り続けた。何処までも走って、走って。
息が切れて思わず崩れ落ちた。気づいたら黒木くんが暮らしているアパートの前にいて。
瞳を閉じた瞬間、崩れていく真一くんの姿が浮かんだ。
彼を助けなくちゃ。誰か、彼を助けてくれる人を。
部屋の中から出てきたターニャに抱きかかえられているうちに黒木くんが帰ってきて。
とにかく「彼を助けて」と頼んだ。部屋から飛び出していく黒木くんの背中を見つめて。
あぁ、神様。これは、罪でしょうか。私が望むのは、もう赦されないことでしょうか。
……それでもいいから、どうか、この想いを届けて。
真一くん。貴方のことが好きでした。きっと、今でも好き。大好き。だから、手を離さなければならないのでしょう。
罪ならば、傷ならば全て私が背負うから。地獄ならば、私が堕ちるから。
だから。
そんなに悲しむような顔で、笑ったり、しないで下さい。
――再び目を覚ましたのは病院のベッドの上で、其処にいたのは蒼眼の微笑みで。
あぁ、もう彼はいないのだと。糸が切れる音がした。