そのまま共に此処に居たとして
冷えた指先に贈る 22


 
 目が覚めると、白い天井が見えた。自宅ではない風貌に、病院かと見当をつける。
 ぼんやりしていると視界の隅で扉が開くのが見えた。音は聞こえない。
 黒木くんだと認識するまでに随分時間がかかった。何か口を動かしているが、声は耳に入らない。
 は、と表情を曇らせて黒木くんはサイドテーブルの上に載せられたボードを手に取る。

 ――体調はどう?

 「大丈夫」と答えようとして自分の声も聞こえないことに気づいた。だから、一応答えてから肯定するように頷く。
 良かった、と口唇が動いたのが分かった。此処は? と問うと「病院」とボードに文字が書き足される。
 一日ほど眠っていたようだが、それはここ数日の睡眠不足が原因のもので、すぐにでも退院は出来るという。
 そうか、とベッドから起きあがりかけた俺を留めるように、黒木くんの手が伸ばされる。

 ――どうして”耳”の事を黙ってたの?

 ……ジジイに聞いたな。
 いかにも彼らしい、率直な質問だなと思わず苦笑してしまった。それに怪訝な顔を見せた黒木くんに「ごめん」と答える。
 そういうことじゃなくて、と思わず口にしたのだろう。慌ててボードに書こうとする彼に被せるように口を開いた。
 一日に一個音が消えたこと。それが徐々に増え、オケの練習でも影響を及ぼしていた事。
 医者からは精神的なものが原因だと言われた事。
 突如として全ての音が消えて混乱したままホールから逃げだした事。
 自分の事にかかりきりで、のだめの事には全然目を向けていなかった事。
 あいつを信じ切れなかった事。誕生日の”約束”も聞き届けてやれなかった事。
 ……そして、あいつを縛るくらいならと、手を、離した事。
 全てを聞いた後、黒木くんは一言「……どうして」と呟いた。そして、一度頭を振って俺を見る。

 ――マエストロから伝言。『あの時の話が本気ならば、準備をしておけ』って。何のこと?

「さぁ……何かな」

 ――千秋くん?

「少し、一人になってみようと思うんだ。誰も、何もない所に」

 ――誰にも知らせないの?場所も、期間も。

「それを教えたら、”一人”にはならないだろ?」

 家まで付き添う、と言い張った黒木くんを何とか宥めてタクシーで家に戻る。
 あいつはまだ病院にいる、と言っていたから……まだ家には帰ってきてないだろう。
 今のうちに、この家から俺の残像を消さなければ。帰ってきたときに、あいつはきっと泣くから。
 日頃から物を溢れ返させているあいつとは違って、見てみれば俺の荷物なんてほんの少しだ。
 楽譜などの音楽関係はジジイが全て受け持つと言っていたし、そうすれば何も残らない。
 必要最低限の荷物だけをトランクに詰め込んでいると、ズボンのポケットから何かが落ちた。


 かちゃん。


 きっとしたのはそんな無機質な音だったのだろう。それさえも聞こえなかったのに、振り返ったのは
 きっと呼ばれたから。
 ………駄目だな。まだ、何もなかったようにしてこの部屋を去れる程、俺は出来ちゃいない。
 恐る恐る手を伸ばして触れた俺の砦は、あの時呆気なく決壊したんだ。
 だって。そのまま共に此処に居たとして、―――今の俺に何が出来る?
 あいつはこれからもっと飛んで。俺さえも行った事のない所へ行く。音楽の楽しみを伝え続けるんだ。
 俺はまるで糸の切れたマリオネット――ペトルーシュカそのものだな。
 俺は、もう一度”音”を探しに行く旅に出掛けるよ。


 ――俺にお前の『音』が必要なように。お前も、俺の音に頼ればいい。そして、そこから自分の『音』を掴んでみせろ。お前の『音』にしてみせろ。だから。焦るなよ。いつまででも、待ってるから。お前が追いついて、共に走り出せるのを。一緒に、手を繋いで進み出せるのを。だから。だから、一人で勝手に泣くな。


 ……あぁ、あの時とは逆だな。今度は、俺がお前がいる場所まで追いつけるように頑張るから。
 冷たい鍵を強く強く握りしめる。泣くな。今はまだ、泣く時じゃない。俺にはまだやらなければならない事が残っている。
 鞄の底から、小さな箱を取り出す。あいつの誕生日に、と思ってオーダーメイドで作ったオルゴール。
 渡そう、と思っていたのはいつだっただろうか。……それさえも、祝えない今の俺が。
 ポケットに忍ばせていた銀の懐中時計を取り出す。正確に刻み続ける鼓動を、感じ取ることは出来ない。
 それでも。俺を進めてくれたこの時の音が、もう一度俺とあいつを繋げてくれることがあるならば。

 ――これは。これは、俺の賭けだ。いつまで経ってもみじめな俺の賭け。
 今度こそ、あいつに。もう一度、”会えた”なら。そうしたら、今度こそは。
 結婚しているかもしれない。俺なんて、忘れているかもしれない。けど。それでも。


 ……その手を、決して離さないから。


 あの時、二人の”音”は確かに一つになっていたんだと感じたあの時の誓いを、もう一度。



 
君の小さく、か細く、少し冷えた指先に贈る。
今、抱えられるありったけの愛情を。
――それが、刹那の別れだったとしても。
 


 

 
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