響くあの塔の鐘の音は、どうしてこんなに遠いのか。
作品タイトル


 
 纏めてみれば、俺達の数年間なんてちっぽけなものだったんだと、そう思った。
 タクシーを使おうか、と考えてふと歩いて行こうと考える。
 どうせこれから時間はたくさんある。それが俺にとって良きとなるか、悪しきとなるかは分からないけ れど。
 それでも、俺は俺なりの一歩を踏み出さなきゃいけない。

 ……自分のために。そして、出来るなら、あいつのために――

 でも、それまでは、この気持ちは封印していようと、思う。
 凍らせて、眠らせて、いつか笑ってその鍵を解くことが出来るように。
 そして出来るなら……その”鍵”はあいつの手に渡っているように。
 思えば、最近日課だったジョギングもしていなかったな、とふと思った。
 時間に追われていた生活。心の底から溢れて来なくなった、音符の波。
 俺が、あいつが、一緒に手に掴みたかったものは何だったのだろうとふと思った。
 一日の始まりとばかりに街を颯爽と歩んでいく人の流れに逆らって街並を歩いた。

 誰にも告げることなく。
 何にも知られることなく。

 俺は、これから逃避と捜索の旅に、出る。


 この時間だと、黒木くんはオケの練習中だろう。俺も抜けて、のだめは入院中でライザーは一人で切り盛りしているに違いない。
 そのことに大してもう何も思わなくなった。
 それこそ、最初は憤りだとか哀しみだとかが溢れていたような気もするけれど。
 ――今の俺には、手にすることの出来ないものだから。手にしてはいけないものだから。
 これが、”逃げ”だと俺は知っている。
 知っていて、どうして手にすることが出来るのか。
 事務所につくと、オリバーが運転席に座っていた。相変わらずそのしかめっ面に苦笑してしまう。
 それでもその瞳が心配そうに揺れているのはサングラス越しにでも分かった。
 ゆっくりとドアにもたれ掛かっていたマエストロが身体を起こす。
 ……どうやら、エリーゼは此処にはいないらしい。まぁ、仕方ないだろう。あれだけ反対していたし。
「……来ましたカ。では、行きマショウ」
 そう呟いてマエストロは少しだけ寂しそうに呟いた。指先で示されたドアへと誘いながら。
 パリ中心部にある事務所から車で数十分、とある場所で車は止まった。
 そこは何度か使った事のあるオペラホールだった。オペラだけではなくて、俺も客演で使った事もある。
 ……のだめも、リサイタルで使った事があるはずだ。
 横へ視線を滑らせるとジジイは窓を少しだけ開けて、瞳を閉じている。
 それでも何も聞こえない俺には何が流れているのか、さっぱり分からない。
 困惑した表情を浮かべて彼の顔を凝視していると、それを感じ取ったのか彼が瞳を開けた。
 俺の右手を取って、ゆっくりと其処に手で文字を描いていく。

 ――の、だ、め、チャ、ン、の、リ、サ、イ、タ、ル、で、す。

 目が見開かれる。それを横目で見ながら、ジジイは更に指を走らせた。

 ――彼、女、の、たっ、て、の、希、望、で、無、理、に、開、い、た、そ、う、デ、ス、ヨ。

 だって、まだ入院してた筈じゃないのか? それなのに……
 ピアノの前で生き生きと鍵盤にその魔法の指を走らせる姿が其処にある。
 マエストロの、何処か優しい微笑みから瞳が離せなかった。
 俺には感じ取ることの出来ない”何か”を、彼から享受しようとするように。

 ――ラ、・、カ、ン、パ、ネ、ラ。……綺、麗、な、音、デ、ス、ネ。

 遙かなる鐘の音が。街中を駆けめぐる、時を告げる音が。
 どうして俺の耳には届かない?
 俺に笑いながらラ・カンパネラを弾いてくれたあいつの笑顔が浮かんできた。
 「しんいちくん」と、少し震えた電話でのあいつの声が蘇る。
 唐突に込み上げてきた何かを必死に押さえ込んだ。ジジイから離れた手を強く、強く握りしめる。
 ……分かっている。俺には、其処に立つ資格がない。其処へ、あいつがいる所へ飛んでいくための”翼”が無い。
 あぁ、どうして。




 ――――響くあの塔の鐘の音は、どうしてこんなに遠いのか。




 
それはさよならの足音の如く。
 


 

 
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