……ふとパソコンから目を上げると、エリーゼが其処に立っていた。
どうしマシタ? と声を掛けると、「いいえ」と堅い声が返ってくる。
この二年、このやり取りを何度したことか。
『今日も週刊誌から電話が来ましたよ』
『……暇人デスねぇ』
『マエストロ、ご冗談は程々に。私だっていい加減にして欲しいと思ってます』
『エリーゼ、そんなに怒ると皺が、』
『誰のせいだと思ってんですか!』
むきゅ。と誰かの真似をして瞳を瞑る。
サイドテーブルに置いていたワインを手に取って、ゆっくりと背に凭れた。
『チアキはどうしてますか?』
『……とりあえず生きているようですよ、オリバーの監視によると』
『監視、ねぇ。チアキは囚人じゃない筈なんだけど』
『もはや似たようなものです』
インターネットを開きながら、エリーゼが鞄から書類を取り出すのを黙って見る。
『最近は別荘の周りも散歩しているとか。少しは音にも反応するようになってきたようです』
『聴力が復活してきたと?』
『そういう事になります。……まぁ、あれだけのスケジュールを押し込んだ責任は私にもありますが』
苦々しい表情を浮かべたエリーゼは、ちらり、と視線を外した。
それを「フン」と一蹴してみせる。
『若手はそれくらいこなして当然デス。でも、まぁ……チアキはちょっと特殊、だったかもね』
『――彼女の事ですか?』
『それもあるけれど……彼の父親の事もあったし、何より彼自身が生き急いでいた』
『………』
『ニナもそれを心配していたのに……それを未然に防いでやる事が出来なかったのは、やはり私のミスです』
『マエストロ』
さて、とネットをいじくっているとバタバタと騒がしい音がした。……この足音はスザン、だろう。
相変わらずチアキの失踪についてあれやこれやと書き込みがなされている。
よくもまぁ、ここまでネタが思いつくものだ。根拠のないガセネタ、何処から拾ってきたのか、この証言。
まるでこれじゃあ世間を脅かせた殺人犯のようじゃないか。
……まぁ、注目を集めるという点では、似たようなものか、とふと考える。
『――お久しぶりですわ、マエストロ!』
こちらも相変わらずで、と視線を向けると余程外気が冷たかったのか走ってきたのか鼻が真っ赤になっていた。
スザンは大きく肩で息をしながらソファに腰掛ける。
『お久しぶり、スザン。調子はどうデスカ?』
『えぇ、私はバッチリ! ……でも、メグミが』
『のだめチャンがどうかしましたか?』
スザンは少し困ったような表情を浮かべる。それから、言葉を選ぶかのように口を開いた。
『……やはり、感覚が戻っていないようで』
『今回も?』
『どうしたのかしら、本当にあの子。……ライザーさんも、傍にいてくださるんですけどね』
『効果無し、という訳?』
『そうなの。客演はこなすわよ、きっと素人目には素晴らしい演奏に聞こえるんでしょうね。……でも、分かる人には分かるわ』
『………そう。あっちもこっちも、っていうことね』
エリーゼとスザンの会話を聞きながら、メールを立ち上げた。
……そう言えば彼はこの現代社会で手紙を重宝していただろうか。まぁ、いい。
ゆっくりとワインを口に運んだ。
機は、熟しつつある。
もう一度、もう一度だけ、この老人にチャンスを与えておくれ。
二人の会話が頭上を飛び交う中、祈るように送信ボタンをクリックした。
――彼らの心の鍵は未だ見つからない。
彼が一人きりの旅に出てから、もうすぐ、二度目の冬が来る。