手を離したら、もう二度と握れない気がするんだ。でも、それは事実で。
だからずっと、離れたままなのかもしれない。
あずけたものを返してくれませんか 25


 
 
 朝目が覚めて、自然と身体はキッチンへと向かう。
 沸騰直前でガスを止め、ちゃんと豆挽きから作る珈琲を口に含んだ。
 鼻に抜ける珈琲豆の香りに、少しだけ口角が上がった。
 これだけはこの二年間、一日たりとも変わらない習慣で視線を滑らせると酒瓶が床に転がっていた。
 時々、……今では本当に時々だけれど、「何か」が爆発しそうになると酒に逃げる癖が付いた。
 それがジジイの言う「音楽家としての本能」からの逃げなのか、それとも―――


「………あち、」
 いずれにしても。
 この二年で珈琲が二日酔いの改善薬になったのは俺だけだと自負出来る。
 全くの無音の世界に、初めに戻ってきた音は意外にもケトルの音、だった。
 それはもう静寂に慣れつつあった俺にとっては、何が起こったのか分からないほど焦った。
 それから慌てて薬缶に駆け寄って火を消したのを覚えている。

 戻った。還って、きた。

 よく分からないけれど、キッチンに崩れ込んで笑い続けていた気がする。
 それが、大体二週間ほど前。
 カーテンを開けていないので部屋はいつでも薄暗いままだ。
 それを覆す気は更々ないから、その代わりに俺は最近外に足を向けるようになった。
 ジジイの世界中に点在する数ある別荘のうちの一つ。周りには民家一軒すらない。
 まさに「変態の森」に相応しいような――
 そこまで思い描いて、ふと口元に浮かんでいた笑みが消えた。
 手を離したら、もう二度と握れない気がするんだ。でも、それは事実で。だからずっと、離れたままなのかもしれない。
 痛みはまだ引かない。それはきっと俺がこれからずっと抱えていくもので、手放したくはないものだ。
 この痛みがあるうちは、まだ繋がっていられるような気がして。……俺の、自己満足ではあるけれど。
「…………」
 すう、と深呼吸をしてみた。此の地で過ごす二度目の冬の空気は何処までも透き通っていて、肺に滑り込んでくる冷たさに軽く鳥肌が立った。
 もうじき、雪が降り出してくるだろう。「空の唄」が。
 それを、今年は聴く事が出来るだろうか?
 数ヶ月後、この世界の風景を思い浮かべてみる。樹海に囲まれ、綺麗で、ほら。
 人間がいなくても、ちゃんと世界は成り立ってるらしい。

 「それ」を開けば俺はきっと、何処までも貪欲に音楽を求めている自分を見つけ出して、向かい合う事が出来るのに。なのに俺はいつまで経っても、狭い世界で前にも後ろにも進めなくなった子供の如く、怯えて膝を抱え、目も耳も感覚の全てをシャットダウンして閉じこもり続けている。全てを無くしたかのような、ポッカリと空いてしまった穴の中で。
 ―――世界はそんな俺を、嘲笑っている。


 「何か」が代わり、「何か」が戻り、「何か」が進みそうな予感が、した。



 
目を閉じて、再び開けたとき、僕はちゃんとこの世界に受け入れられている。
 


 

 
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