囁かせたその言葉は今、ただ灰色の残像になって残っているだけだった。
必要不可欠な無駄 26


 

 夢を見る。



 何処までも真っ暗な世界に唯一人、ぽつんと取り残されて、
 「独り」が怖くて怖くて誰かの名前を口にする。
 私は自分の声ですら耳に音として届く事は無くて、
 「独り」が身体にのし掛かるのも嫌で走り出す。
 知っている人の名前をどんどん挙げて、走って走って息が切れるほど走って、
 それでも私は暗闇に突っ立っている。
 逃れる事の出来ない世界で、何か光を見つけたような気がして、
 「独り」じゃなくなったような気がして、必死にその「名前」を叫んだ。
 けれどそれは私を助けてはくれなくて、もう一度だけ小さく「名前」を呼ぶ。
 自分が何て言っているのかも分からない。
 そのうち、暗闇が私を包んで―――私はいつも其処で目が覚める。



 軽く乱れた息を抑えようと、わざとらしく大きく息をついた。
 背中に張り付いたパジャマの感触が気持ち悪い。着替えようかな、と思いついた所でドアが開いた。
『メグミ、おはよう。ご飯出来てるよ』
『……ありがとございマス』
『いえいえ。早く顔洗っておいで』
 エプロンをつけていつものようにニコニコ笑いながら彼は――ライザーさんは、ドアの向こうに消えた。
 いつから、この家に彼の姿が当たり前のように見えるようになったのだろう。
 もう随分と昔のことのような気がする。けれど、決してそんな事はなくて。
 ……あぁ、確か夢を見ていたんだっけ。忘れていたくて、無理に思い出す必要もないだろうと思考を封じる。
 囁かせたその言葉は今、ただ灰色の残像となって残っているだけだった。

 「彼」のいない、「独り」の冬が今年も来る。



『―――ストップ。少し、休憩しようか』
 ライザーさんの声が上から降り注いでくる。は、と意識を戻すと高く昇っていた筈の陽は随分と暗くなっていた。
 少し困ったような表情でライザーさんが背広を脱ぐ。それをぼんやりと見つめながら、ただ黙っていた。
『今日もまた、一日中弾いてたの?』
『……納得、いかなくて』
『だからと言ってこれでは体調を崩してしまうよ?』
『……………でも、』
 ちらり、と移した視線の先には大量に印刷されたネットの記事が散乱していた。
 それを見つけてライザーさんの眉間に皺が深まる。
『また見つけてきたのか。君の特技は、自分のあら探しをする事なのかな』
『……けど、それは、事実……だから』
 輝かなくなった音。響かなくなった喜び。人は私の演奏を聴いて「素晴らしい」と手を叩く。
 でも、分かる人は……同じ、「音楽家」たちは違う、と口を揃える。
 ―――これは、メグミ ノダの、音楽の神に愛されたピアニストの奏でる音楽ではないと。
 そんな言葉が私を取り巻くようになったのはいつだろう? そう、あれは――
『……とにかく、お風呂に入っておいで。身体もこんなに冷たい、ね?』
『―――ハイ』
 促され、リビングからバスルームへと向かう。ぱたん、と扉を閉じた途端頬を伝い降りるものがあった。
 これは私の罪。あの人を独りで行かせてしまった、私に対する罰なのだろう。
 報道陣が彼の行方を血眼で捜しているのを知っている。それを、ライザーさんが徹底的に隠しているのも。
 スザンだって、エリーゼだって。ミルヒーだって教えてくれない。
 彼は何処へ行ったのだろう?
 あの、冷たい雨の日に「サヨナラ」をして。独り、暗闇の路地に残されて。
 私は彼に背を向けて、彼の笑顔から逃げたのに。
『……ねぇ、メグミ? どうしたの、こんな音……貴女らしくないわ。体調でも悪いの?』
 私らしい、音って、なに?
『メグミはこれまで頑張ってきたんだから、少し羽根休めしたらどうかな? 旅行にでも行こうか』
 彼が独りで泣いてるのに、私だけ幸せになれない。
『のだめチャンの”心”は何処に行っちゃったんでしょうかね……?』
 ……ミルヒー、のだめ、また分からなくなっちゃいましたよ……。
 ずるずる、と扉に沿って身体がずり落ちていく。擦れた背中の痛みも気にならなかった。
 決して泣くまいと。決して崩れるまいと。決して落ちる訳にはいかないと。
 ……でも、でもね。
 音が逃げていく。私に応えたくはないと、音は私から離れていく。
 ――ねぇ。


 夢の中での暗闇が、迫ってきたような気がして強く強く目を瞑った。


「”サヨナラ”だ、のだめ。俺はもう……お前には会えない。傍に、……いられない」
 そうして「サヨナラ」と私に言わせるためのデートだったのだ、と気づいたのはいつだっただろう?
 でも、私に優しく微笑んでそう言った彼を振り返る事は出来なくて。
 どうしようもない、自分の事しか考える事の出来なかった私には彼の手を握り返すことは出来なくて。囁かせたその言葉は今、ただ灰色の残像になって残っているだけだった。
 彼は何処に。どうして、いなくなったの。
 膝を抱えて、その中に頭を沈めるとふと昔の記憶が蘇ってきた。
 あれは私が今のように「音」を掴めなくて、独りで殻に籠もっていた時。
 貴方は、あっという間に私との壁をぶち壊して来てくれたね。



 ―――お前の「音」で応えろ、のだめ。



 でも、……でももう無理だよ。分かんないよ。出来ないよ。
 だって。
 ……だって、此処にはいない。あの時の魔法使いは、もう、何処にもいないんだから。



 
絶対無敵の魔法は、あの魔法使いにしか使えない。
 


 

 
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