その綺麗な蝶を飛ばして、彼女はその心に在り続ける沈黙を表した。
必要不可欠な無駄 27


 
 彼女は何かから逃れようとして、とにかく多くの仕事を取ってくる。
 仕事に没頭している間だけは「それ」から逃げられる、とでも思っているのか。
 ―――でもそれは間違っている。
 彼女は、何者からも逃れられてはいない。逃げたつもりで、ただ蹲っているだけだ。
 忘れることだけが全てではない。それは分かっている。
 彼女だけが奏でられる音はまるで蝶の如く艶やかで、奔放的で、……そして、儚い。
 それだけがまるで彼女の存在意義であったかのように、頑なに握り締めていた筈だったのに。
 その綺麗な蝶を飛ばして、彼女はその心に在り続ける沈黙を表した。
 けれど、それで終わった訳ではない。むしろ、始まってすらもいないのに。
 ―――そして、その状況を知りつつ、何もしない俺は……卑怯、だろうか?


『お疲れ様、メグミ。ようやく終わったね』
『……そデスね、少し疲れマシタ』
『あとはもう帰るだけだから……少し、探索しようか』
 ハイ、と差し出された掌をじっと見つめる。彼が、ライザーさんが傍にいるようになってもうすぐ二年。
 「君の傷が癒えるまで待つよ」と言われた言葉も、ただ傍にいるだけの優しさにも。
 応えなければ、と思う程に踏み出すのが躊躇われる。
 それはきっとまだ私の心の中に「彼」がいるからで。それではいけない、と分かっているのに。
 ……だって、彼は、彼と私は「サヨナラ」をしたんだから。
 彼は優しい。いつも私の事を考えてくれて、私のためを思って動いてくれる。
 きっと何よりも素晴らしい人なのだろう。この人と一緒なら、何不自由なく裏切られることのない幸福を得られるに違いない。
 スザンだって「どうして付き合ってないの?」と首を傾げるような人だ、彼は。
 何を躊躇うのだろう。何を迷っているのだろう。
 ――私の進む道は、一つしかないのに。

 ぼんやりと考えていると、少し苦笑してからライザーさんは私の手を取って歩き出した。
 これも、この二年で見慣れた光景だった。差し出されても私は掴めず、そして彼が取って歩く。
 差し出されたものを受け取れず、掴みたかった物には手を出せなかった。
 ……何とも、世の中って言うのは奇妙なもので成り立っている、とつくづく感じる。
『今回のツアーは結構良かったんじゃない? 特に後半。ドイツとイタリアは客の評判も良かったし』
『そう……デスかね?』
『うん。ネットでも概ね良かった、って書いてたよ』
『……』
『って言っても、メグミはきっと納得出来てないんだろうけどね』
 ぶらぶらしながら立ち寄った店で、郷土料理を口にしながらライザーさんは『それはそうと』と口調を新たにした。
 私は思わず身構えてしまう。こんな雰囲気になるのも、この二年で変わらないことだ。
『……プロポーズの返事は、いつもらえるのかな』
『………』
『ツアーの前にもしたけど。ていうか、この二年し続けてるけど。そろそろ、返事、くれないかな』
『ええと、』
『うん。断られてはいないから大丈夫、なんて高を括ってたんだけどさ、俺にも不安って物があってさ』
『……ごめんなサイ』
『謝らなくてもいいよ。――っと、そろそろ出ようか。今からなら、まだパリ行きの寝台に間に合うよ』
 あっという間に会計を終わらせてライザーさんは夜の街へと足を踏み出した。私は黙ってそれに倣う。
 ポケットに手を突っ込んでいた彼は、ふと振り返ると掌に小さな箱を乗せていた。
 そのまま、私達は橋の上で立ち止まる。二人の中に、どうしても越えられない「何か」を感じながら。
『……メグミ、この間君が言った事を覚えてるかい?』
『――ハイ』
 思わず、ライザーさんに向かって泣き叫んでしまった。全てが耐えきれなくなってしまいそうで。
 こんな私が――こんな、こんな世界で奏で続ける私の音楽が、誰かに伝わる訳がないと。
 私の世界はもう何処か壊れていて、そしてそれは必ず「何か」に繋がっていて。
 だから私には、「音」を「心」を届ける資格などないのだと。
『君に言いたかった事がある。………プロポーズの件も、そうだけれど』
 ちらり、と己の手の上に置いてある箱を見つめ、ライザーさんは口を開いた。
『君の言う、どんな世界なら君の音楽は輝くっていうんだ?』
『無理……デス。だって、私は……』
『もっと綺麗な世界なら生きれるって? もっと美しければ誰も悲しかったりしないって? ……じゃあ聞くけど、君の言う”こんな世界”――腐った世界では生きてけないって言うんなら、そんな世界でさえのし上がれない、道を踏み外すような君が、もっと素晴らしい世界で、ちゃんと生きていけたりするのかな、ねぇ?』
『―――ッ』
 衝撃、だった。
 彼がこの二年で初めて口にした、私への攻撃的な言葉。
 私は気道が閉じてしまったかのように息が出来なくなる。
 それを知ってか知らずか、ライザーさんは私を無表情に見つめたままだった。
『君は逃げている。進むことから、前を見ることから、……自分を見つめることから。それじゃあ、”彼”が君の前を去った意味がないだろう? 君は、幸せになる権利がある。義務、と言っても過言じゃない。だって、”彼”はそれを見越して君に別れを告げたのだから』
『………』
『その君の幸せを、俺が作り上げられたらとこの二年、ずっと思っていた。君の言う”こんな世界”に生きるのが嫌ならば、俺が君をもっと”綺麗で美しい世界”に連れて行ってあげたい。そこに君を閉じ込めてしまいたい、とさえ思うよ』
 ライザーさんは、一度だけ掌の小箱を握り締め、流れるような動作でそれを私の掌の上に乗せた。
 今まで中途半端に逃げてきた事から、今向き合わなければならないと直感で思った。
 こんなにも小さくて軽いのに、どうして私にはまるで鉛のように感じるのだろう?
 これが、私の”幸せ”となるのなら、決して私は迷ってはならないのに。
『君に渡しておく。今度こそ、君の返事がもらえる事を期待して待ってるよ。……今日は、こっちのホテルに泊まるから』


 列車の時間は、大丈夫?


 そう問うた彼の声は、やはり何処までも優しかった。
 きっと、この二年で初めて彼と離れる時間かもしれない。
 プロポーズもされた。同じ住居で暮らしてた。……けれど、そこには色めくものは何もなく、淡々と私達の関係は”ピアニスト”と”編曲家”だった。
 彼はこの二年でどう思ってきたのだろう。私を見続けてくれていた彼と、それを知りながら視線を逸らしてきた私と。
 視線をずらすと、暗闇の街中に私の顔が反射して見えた。……疲れて、光を感じることのない瞳。
「……酷い顔、デス」
 思わず苦笑いが零れた。
 何だかもう何もかもがめちゃくちゃになりそうだった。考えることから放棄したくなった。
 感情がこんなに鬱陶しいものだったとは、知らなかった。
 ―――あの頃は。
 ”彼”を追いかけて、自由奔放に駆け回って、思いっきり我が道を突っ走れた、あの頃は。
 きっと、私が今こんな事を考えているだなんて思いもしなかっただろう。
 ただ漠然と「先生」になるのだと考えていた日々、音楽とは向き合おうとはしなかった日々。
 「一緒に行こう」と誘われて。
 それでも、己の中の”不安”や、”焦り”……いろんなものを置いてきぼりにしたままだった。
 何もかもが決められた枠組みの中にいる私を、あの頃の私なら何て言うだろう。
 時計を確認すると、終着点まではまだ1時間ちょっとあった。
 眠くはないけれど今は何も見たくなくて瞳を閉じた。完全には訪れてくれない闇に、根拠のない苛立ちが募った。
 ……少しだけ、休ませて。


 カタンカタンという無機質で規則的な音に、何だか無性に泣きたくなった。



 
ひらひらと舞う黒い黒い蝶の幻影(かげ)が、
まとわりついて離れない。
 


 

 
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