ただいま、と言わなくなってからどれくらいになるだろう。
退院して無理に開いたリサイタルの後、半分意識の落ちかけた私を迎え入れたのはしん、と冷えた暗闇だった。
何もかもが散らかしたままだった私の荷物は相変わらず散乱したままで、それでも「何処か足りない」と思うには十分だった。
一つ一つ部屋を見渡して、ようやく気がついたのだ。
―――彼が、本当に私の前から姿を消してしまったのだという、事実に。
気だるい身体を動かしながら、洗濯機に衣服を詰めていく。夜中でも静穏に優れた洗濯機は乾燥までやってくれる。
キャリーバッグの中から楽譜を取り出して、テーブルの上に乗せると反対側から何かが落ちた。
……常々、ライザーさんからもテーブル周りだけは片付けるように怒られる。
それが、尚更”彼”を思い出させるのだということを、おそらく彼は知らない。
心の奥底に収めた筈の、微かな苛立ちが立ち上ってきたのを自覚しながらそれに近づいた。
軽く埃を被っているそれは――
「……もじゃもじゃ、組曲」
彼を忘れたくなくて、時間をただ過ごせばまた「ただいま」って帰ってきてくれるような気がして。
彼と出会ってから弾いた全ての曲を片っ端から弾いていた。……それこそ、夜とか昼とか関係無しに。
そうしていて、倒れる寸前に訪れたライザーさんによってまた病院送りになったんだっけ。
あれからだろうか。彼が、私と共に此処で暮らすようになったのは。
他の楽譜は皆彼が仕舞っていてくれたとばかり思っていたのに。きっと、彼は日本語を読めないから何かの資料だと思って放っておいたに違いない。
……でも、これは。私の中で一番”綺麗だった世界”の、思い出なのに。
「………は、」
乾いた笑みが零れた。頭の奥がキーンと鳴っている。あぁそうか、耳鳴りかと思った瞬間に、私の右腕はその楽譜を力一杯投げつけていた。
がしゃん、と何かが割れる音がした。きっと棚の上に置いていた何かにぶつかったんだろう。
続けてぶつかったり、壊れたり、崩れる音が響く。綴じていた紐が緩んでしまったのか、ひらひらとまるで蝶のように楽譜が宙を舞った。
何も見たくない。何も聞きたくない。
これは私の罪だ。咎だ。重々承知している。……いっそ、自らが哀れだと思えるなら、どれ程楽なことか。
―――のだめ。
耳を閉じる。聞いてはいけない。思い出してはいけない。私は、前に進まなければならないから。
―――のだめ。
お願いだから。名を呼ばないで。
―――……のだめ。
あぁ、どうか。
ちり。
何処かで小さく音がした。……何の音だろう。楽譜が散乱した、静寂――いや、洗濯機は相変わらず動いているのだけれど――の部屋の中で、確かに何かが鳴った。
金属を、弾いたような音。
ちり、ちーん。
弱弱しく、されど途切れることはないメロディが部屋を満たしていく。これは。
「………オルゴール?」
でも、こんなの知らない。私は、知らない。だって、このメロディは――
―――のだめ。
そう、私を呼んでいるような気がして。床の上以上に散らかっている棚に向かう。
始めは恐る恐るだった足並みが、徐々に早くなっていく。山になった荷物に手が伸びたとき、私はもう必死だった。
細く辿る旋律を、まるで宝物探しのように求める。
途切れる前に。せめて、その端だけでいいから掴ませて。
「何処……ね、どこ……っ」
これを逃したら、もう二度と私は会えないような気がする。何もかもを捨て、何もかもを持って行った
”彼”がきっと残したもの。何処までも完璧主義者のくせに、こんな綻びだけは必ず残す、何処までも優しい人。
「……っ、…く……いち、く…っ」
今でも夢の暗闇は止まらない。それでも、光は見える。
ぼんやりと滲む視界が堪らなくもどかしい。掻き分けても掻き分けても、光を見つけられることは出来なくて。
「――…しんいちくん……っ!」
ちりん、ちり……ちりん。
「………ぁ、」
もう途切れそうな旋律を、オルゴールは必死に奏でていた。まるで、私がそれを求めていたように。
「此処にいるから、見つけて」と。
――私は、どれだけこれを見つけられずにいたのだろう。あまつさえ、忘れようと捨てようとしていた私を。
そろそろと手に取ったそれを、ゆっくりゆっくりと螺旋を回す。キリキリキリという音が心地良い。
離した瞬間、さっきよりも力強く奏でられたメロディに、思わず耐え切れなくなった涙が零れ落ちた。
「…………のだめ、ラプソディ………」
これは市販された曲ではない。彼が、真一くんが書いて私が形にしたもの。
……そう、初めて二人で一から作り上げた曲だったね。きっと、彼がオーダーメイドで作ったのだろう。
裏返すと底に小さく文字が刻み込まれていた。
―――” 9月10日 Dear恵 From真一 日々の感謝と変わらぬ愛を ”
「……っ、ふぇ…ふ、く……ッ」
オルゴールを抱きしめた。きっと、いつも私を見ていてくれたんだね。
悲しまないでと。苦しまないでと。きっと、私を護っていてくれてたんだね。
ごめんね。ごめんなさい。気付いてあげられなくて、ごめんなさい。
……貴方は誰よりも何よりも優しい心を持っていたのに。
――メグミ、これだけは聞いて欲しい。君にとって……
ふと、ライザーさんの言葉が蘇った。私の視線はしばらく宙を彷徨って鞄に辿り着く。
そのままひっくり返しそうな勢いで携帯を取り出すと、夜中にも関わらず真っ先にコールした。
『――oui、メグミ?』
『……のだめ、です』
一瞬、すっと息を吸い込むような音が聞こえた。「何があったのかな」と小さくライザーさんが呟く。
『返事を……聞かせてもらえる、みたいだね。どうやら、俺にとっては不利になりそうな』
『――ごめんなさい』
『いや。久しぶりに”君”に会えて嬉しいよ』
『え?』
『君と過ごして、初めて自分を”のだめ”って言ったね』
『……』
『決意は、固まった?』
『はい。結婚は、出来ません……ライザーさん』
『……うん。――ねぇ、メグミ。一つだけ聞かせて』
『はい?』
『君にとって、”この世界”はどうでも良いものだった?』
『……』
『最初は誰でも一人だった。そこから誰かを見つけようとしたんだ。だから……君は、この道を後退するつもりかい? 傷つくのは、目に見えている。もう一度、暗闇から立ち上がる勇気は、あるかい? 俺はそれが知りたい。戻って、また手折れるのを見るのは嫌だよ』
『それは、』
――どうでも良いだなんて、そんなこと。
『私は……いえ、のだめは……自分に正直に生きることにしました』
『うん』
『だから、其れで苦しむならば、……本望のような気がします』
『……うん』
『でも、もう二度と暗闇に落ちることはないと思います。……それは、きっとライザーさんのおかげでもある』
『――男冥利に尽きる言葉だね』
それじゃあ、と彼は努めて明るく言葉を切った。指輪はそっちで処分して、と苦笑交じりに言われた。
少しだけ心臓がバクバクしている。……のだめ、初めて男の人を振っちゃいましたヨ。
しかも、プロポーズを蹴っちゃいました。なんて言ったら、びっくりするかな。
しばらく放心状態だった私の手からオルゴールが滑り落ちる。あ、と思った瞬間には蓋が開いていた。
―――かちゃん。
聞こえたのは、そんな無機質な音。いつの間にか洗濯機も止まっていて、本当に静寂の中に響いた。
壊れてないかな、とオルゴールに目を向けていた私はその音に発信源を辿る。
フローリングの床の上、2メートル程先に”それ”は転がっていた。
四つん這いになって手を伸ばす。掌の上に乗っていたのは、何とも古びた鍵だった。まるで、アンティーク。
でも、直感がした。これが、私と真一くんを繋いでくれる、って。
もう一度携帯に手を伸ばす。やはり、非常識な時間だという考えはすっぽりと抜け落ちていた。
コール音が私の気を焦らせる。何度も何度も汗で滑り落ちそうになる鍵を、握りなおした。
聞こえてきたのは、何ともあの人らしい、のどかで優しい声音。
『――もしもし、のだめチャン?』