「なんで、此処に……?」
「やっと見つけましたよー。ほんと、何でこんな田舎にいるんデスか!」
「ぅ、え? ……えぇ?」
「あれ? 真一くん? ……おーい。固まってマスか?」
のだめとの再会は、何ともあっけないものだったと今でも思う。
けれど、それが何かアイツらしいなぁと思えば納得してしまえるのが、何だかこそばゆかった。
何故か電気を点けようとしたら、のだめに「あ、消したままで」と言われた。
なので、暗闇のまま珈琲を入れるという、何とも奇妙な状況下にある。
お互い最初の挨拶以降話すことも見つからなくて、気まずそうに黙ったままだった。
薬缶のケトルだけが、静寂に響いている。
珈琲を差し出すと、「ありがとデス」と柔らかい声が届いた。
………ようやく、衝撃から目覚めてきたらしい。とりあえず、目の前にいるのは本物ののだめ、だ。
そういえば、カフェオレでなくても珈琲を飲めるようになったんだろうか?
此処は完全に俺のテリトリーなので、牛乳の類なんかは今は置いてないんだが。
だが、そんな心配も無用なようでのだめはちびちびと飲み始めている。
「ぐ、」と小さく声が聞こえたということは、……相当無理して飲んでいるのだろう。
眉間に皺を刻んで口を窄めながら珈琲を飲んでいる姿が浮かんで、思わず口元に笑みが浮かんだ。
………暗闇で良かった、と思ったのは俺の方だったんだろうか。
「―――で?」
「……ミルヒーに、居場所を聞きました」
「教えてくれたのか?」
「ハイ。半分脅しでしたけど」
「ぶっ。……ジジイもお前にはやっぱ甘いんだな」
「そう……でもないですよ。結構、キツい事言われました」
「………たとえば?」
「内緒、デス」
きつい事を言われたと言う割には、のだめの雰囲気は穏やかそのものだ。
もしかしたら、俺と同じように笑みさえ浮かんでいるかもしれない。
でも……きっと、俺たちには”そういう人”が必要だったんだろう。がつん、と俺たちを真正面から殴ってくれるような、誰かが。
手に抱えていた珈琲をテーブルの上に置いて、のだめが小さく「真一くん」と声を掛けた。
「……話したい、ことが、あります」
それを聞いた瞬間、俺の身体に走ったのは――――恐怖、だ。
こいつとの時間を共有するのが余りにも久しぶりで、忘れかけていた。
……彼女が此処へ来た理由は、必ずしも”俺と再会するため”だとは限らないだろう……?
彼女が立ち直れたと、前に進めていけるようになったと、報告しに来たかもしれない。
あのジジイの事だ、俺がだらだらと思い悩んでいることくらい知っている筈。
それを断ち切るために、彼女を此処へ寄越したのだとしたら……?
それまで落ち着いていた筈の心拍が、急に走り出す。荒くなる息を抑えるので必死だった。
のだめの口が僅かに開いたのを、気配で感じ取る。
次は? 何を言う?
―――俺への、永遠の別れの言葉でも……?
「真一くんの馬鹿ぁぁ―――――――――――――――――――ッッッ!!!!!!!!!」
「……ぇ?」
突如として真夜中に響いたのは、……のだめの、怒声、だよな……?
がたんっ、と音まで立てテーブルを卓袱台返しするが如く、のだめはソファから立ち上がった。
此処にある備品はジジイの物だ。テーブルの上に置いていたカップが割れたような音がしたが、俺の耳には入らなかった。
暗闇の中でも俺を真っ直ぐに見つめるのだめから目が離せなかった。
「馬鹿ですか? いえ、馬鹿ですね! えぇ、そりゃーもう大の付く程の大馬鹿者デスよ真一くんは!」
「は、……は?」
「何が”少し一人になってみようと思う”、デスか! 馬鹿の独り言も休み休み言えってゆーんデスよ!」
「は……ちょ、おま」
「大体! 耳のことだって、何で何も言わなかったんですか?! 真一くんは、秘密主義過ぎなんですよ! あぁもうムカつく!」
「お前……ちょっと待て、―――それよ」
「しかも! 勝手に居なくなるし! マスコミにも教えず誰にも知られず一人旅、なんて洒落てマスね?! のだめも是非ともしてみたいですよ!」
「あ゛ぁッ?! お前調子こいてんじゃねぇよ、俺が一体どう思ってお前の前から消えたと、」
「黒木くんから聞きました! あの雨の日だって、一人でずーっと立ち尽くして風邪引いたんですってね! 子供デスかってんですよ!」
「っざけんなよ?! 大体お前だって俺に何も聞こうともしなかったじゃねぇか! 今だってあいつと一緒にいるんだろ?」
「えぇ、ライザーさんはとっても優しくて紳士的ですよ? 何処かの自己中俺様カズオとは大違いです!」
「お前に言われたかないね! だったら結婚でも何でもすればいいだろ? 今更俺のところに来てどうしようってんだよ!」
「本当に自分でもそう思いますよ! でも、―――でもやっぱり真一くんが好きなんだからしょうがないじゃないデスか!!!!」
「―――――ッ、」
「放っておける訳ないじゃないですか! のだめは、真一くんのことずっと見てきたんですよ! 真一くんと一緒に歩んできたんです! そのつもりでしたし、今もその思いは変わってません!」
はぁ、と一度大きく息をついてのだめはきっ、と俺を睨み付けた。
立ったままのあいつと、ソファに座り込んでしまっている俺。
これまでの怒声が嘘の様にしん、と静かになる。ぎゅ、と両手を握り締めてあいつは口を開いた。
―――その瞳に、あの時と同じように涙を溜めて。
「……のだめは、―――のだめは真一くんのゴールデンペアです! 相方です! 運命共同体デスよ! ゴールデンペアの相方が、しょーもないくだらない理由でヘタレてる時に、この天才ピアニストが放ったらかしにしておけますか! 言ったでしょ?! 真一くんが全てを失ったときに、私の”音”で全てを埋めてみせるって! ……少しはパートナーを信用したどーですか?!」
―――全て――仮に、それを真一くんが言う『感情』や『縁』、『記憶』とかだとして――それを投げ捨てて、無くなってしまった場合、ヒトは『無』になるんです。そして、また一から始めるんですよ。
何故なら、この世には終わるモノなど、何一つないから。全ての事柄は永遠に廻り続けている……。終わりとは、すなわち、新たな始まりだから。だから、ヒトは全てを失ったとき、そのぽっかりと空いた己の中に『希望』が残るんです。
だからね。
―――真一くんの言うように『静寂』が訪れてしまったとして、そしたらのだめはピアノを弾きます。
……真一くんの、『希望』の音になれるように。
あぁ。
何だか、本当に無性に胸が苦しくなって、でも、哀しみや辛さに押しつぶされそうな苦しみじゃなくて。
真っ赤な瞳で俺を未だにらみ続けているのだめと同じように、きっと俺も泣きそうになっているんだろう。
滲んだ世界で、のだめがふらりと手を伸ばした。俺は、それを無意識に掴まえる。
腕の中に飛び込んできた温かさは、何も変わってはいなかった。
抱きしめたお互いの腕の強さは、あの頃よりも強かった。
すとん、と初めて心が”この場所に居て良いのだ”と、認めることが出来たような気がした。
立ち止まることも。蹲ることも。下を見続けることも。
……もう、もう止めようか。どうしたって、俺たちは離れることは出来ない運命のようだから。
もう、素直になろうか。今まで、とてもとても長い回り道をしてきてしまったような気がするけれど。
のだめの肩が微かに震えているのが、とても愛しかった。あの頃からも、
愛していた。愛していた。愛して……いる。
お前に空でも何でもやる。だから、帰って来い、ほら?
今、暗闇の中で泣いている君を、迎えに―――行くから。