壊れた人形の仕掛け糸が動く時
したたかな涙 33


 
 もう一度、”ゴールデンペア”への第一歩を。もう一度、俺が立っていた場所への第一歩を。
 ―――そう、壊れた人形の仕掛け糸が動く時。
 俺たちは、始まりの場所-La place de l'ouverture-に還る事が出来るから。


「……峰」
「ん? ――あぁ、”あれ”か。ちょっと待ってろ、今持ってくる」
「”あれ”?」
 峰に目配せすると、珍しく悟った奴は駆け足で部屋を出て行った。
 その背中を見つめながらのだめが首を傾げる。
 黒木くんや、清良がにやにやしているのが分かったが、敢えて無視した。
 …………まぁ、大胆と言えば大胆なんだが。
「のだめ、お前、ラフマはもう完璧だっつったよな?」
「ハイです。どんと来い! ですよ」
「んじゃ、お前に”課題”やる」
「………ぎゃぼ」
「何だよ?」
「………………真一くんの”課題”で良い思い出ないデスから。陰湿でネチネチしてておこがまし―――むきゃぁ!痛い!」
「てめー、いい度胸してるじゃねぇか」
「むん! 事実です。のだめ、嘘ついてないもん!」
「あぁ?! 一体誰が誰のために”課題”を作ってやってたと思ってんだよ!」
「のだめ頼んでませんから!」
「この――」
「はい、ストーップ」
 止まらなくなりそうになった口論を絶妙なタイミングで止めたのは真澄だった。
 相変わらず撥を持って、呆れを前面に押し出した表情で俺達を眺めている。
 いつの間にか峰も戻ってきていて、「あぁ何か本当に懐かしいなぁ」なんて涙ぐんでいる。
 ほれ、と手渡された冊子を受け取り、表情を改めてのだめに向き直った。
「………何です? これ」
「お前が知りたがってた、二曲目」
「むきゃ? 真一くんが”珍しい”って言ってた?」
「そう」
 のだめは手の中の冊子を恐る恐る開く。わくわく、と輝いていた瞳が一瞬にして固まった。
 柔らかな弧を描いていた口元も、力なく開いたまま総譜を凝視している。
「のだめ?」
「これ、……を、やるんデスか?」
「あぁ。俺が決めた」
「俺様―――じゃなくて、いつの間に?」
「ここ数日寝不足だって言ってただろ?」
「………弱虫になってただけじゃないんデスか」
「お前、いつまで俺に喧嘩売る気?」
 こほん、と咳払いするとのだめの肩がぴくり、と動いた。のろのろと視線が交わる。
「最初に言ったとおり、公演まであと一ヶ月もない。オケは既に練習を始めてる」
「はい」
「こっちはまぁ……何とかなる。でも、お前にはまだ”課題”が残ってる」
「……”課題”」
「それは後で教える。ピアニストのお前に訊く。―――出来るか?」
 真一くんの向こうに、R☆Sの皆が見えた。でも、その視線の全てが温かくて、優しくて。
 そして、私を全幅の信頼を置いてくれている。
 あぁ、だからは私は大丈夫だ。
 貴方が迷いながらも立ち止まりながらも必死に自分の”音”を取り戻そうと足掻くように。
 私も、私の”音”を取り戻せるだろう。
 そして私たちはもう一度、一歩を踏み出すんだ。この、始まりの場所から。
「のだめを嘗めないで下さい? 誰だと思ってんデスか?」
「―――上等。任せたぞ」
「はい」
 よし、と真一くんは満足そうな笑顔を浮かべた。
 腕時計をちらりと見下ろして、机の上に置いていた鞄に手を伸ばす。
 それと同時に、オケの皆が一斉に自分の持ち場へと動き出した。
 私も、私のあるべき場所に向かう。
 手に触れたピアノはひんやりと冷たくて、でもそれが心地よくて、懐かしい。
「……………よろしくお願いしマス」

 さぁ、始めよう。伝説の魔王堂は、主の帰還を心待ちにしている。



 
其処には貴方の優しさがたくさん詰まっている。
 


 

 
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