目が覚めて、いつものように珈琲を入れる。大きく伸びをしてから、カーテンを開ける。
その明るさに思わず目を細めた。
……あぁ、いつだったかも思ったな。こんな、陽を浴びてるだけで「生きている」と感じることを。
「真一くん、ご飯ー」
「はいはい」
ベッドの上からひょろり、と細長い腕を突き出して朝食を催促するのだめに笑う。
放ったらかしにしていたシャツを軽く羽織って、黒いエプロンに手を伸ばした。
その過程で視界に入った卓上カレンダーに無意識に頬が緩んでしまう。
―――俺たちの再出発の日。そして、俺の”誓い”を叶える日。
それにしても、今日という日まで当たり前のように過ごすこいつの精神にも驚きだ。
あの頃から変わっちゃいない。
「しんいちくんー?」
あぁ、でも。
「………分かってるよ」
あの頃と違うのは、おはようのキスを強請るようになった所。か?
「ほらほら急いでー」と、普段言われ慣れないのだめの台詞に追い立てられるようにホールへと入り込んだ。
あまりにも早く着き過ぎたためか、オケのメンバーでも姿はあまり見かけない。
腕の中に総譜を抱え込んだのだめは耐え切れないように、駆けて行っては俺を振り返る。
それに苦笑しながら後をついていくと、一つの部屋の前で立ち止まった。
”会議室”とプレートの掛けられた白い壁の部屋。ドアを開けて、のだめを迎え入れる。
「さ、どうぞ。ピアニストさま」
「……ハイ、です」
―――さぁ、”課題”の合否判定をしよう。
「………どうですか」
静寂に響いたのだめの声に、ようやく舞台は終わったのだと気づく。
それまで余韻に浸っていたのか、それとも声にはならない俺の感性が論理を組み立てていたのか。
ピアノの椅子に座ったままののだめは、じっと俺を真正面から見つめている。
「いいんじゃないか」
「のだめは、真一くんの”課題”に応えられますかね?」
「……さぁな。それを判断するのは、俺じゃないからな」
「デス。ね」
ふわり、と微笑んだのだめにつられるように、思わず立ち上がって傍に寄った。
ゆっくりと頬を撫でると、ちらりと俺を見て静かに瞳を閉じる。
そのまま、誘われるように唇を重ねた。何度も、何度も。
防音室特有の音の響きが、俺たちの間で何度も奏でられる。
それに、照れたのか、早々にのだめが俺の袖を引っ張った。
名残惜しかったが、しょうがない。
「……じかん、は」
少々幼い発音ののだめにもう一度顔を寄せるが、今度は指先で止められた。
むぅ、と口を尖らせると再び「時間、」と、今度はしっかりした口調で窘められる。
携帯を確認すると、オケのメンバーが集まる30分前だった。
同時に、峰からのメールと電話での着信を認める。
―――”課題”は終わったか? いや、ムッツリなお前のことだから本命はそっちじゃねぇだろ。
峰にまで見通されていることに、小さな落胆を感じながらのだめを離した。
意味はないというのに、手早く髪や服装を整えている。総譜を抱えて、ピアノから立ち上がった。
それが、勇ましくも儚い、戦場に赴く聖女のように思えて、「のだめ」と声をかけた。
彼女はそれを予期していたかのように、振り返る。
「……後悔してるか」
「何に対して?」
「全てのこと。これまでの、俺とお前を繋いできたものに対して、どれか一つでも、」
「してまセン」
「………」
「生憎と、そんな暇はのだめには一切無かったので。後悔するくらいだったら、後悔しないようになるまで突っ走りますよ」
「聞きたくはないが、……その先は?」
「まぁ、もちろん泣くでしょうね。自分の馬鹿さ加減に呆れ果てて」
「……お前、随分逞しくなったな」
「えぇ、真一くんがもやしの如くひょろ弱かったので、のだめが牛蒡の如く強くなってあげました」
「………そうか」
そこまでで一度区切る。出てくるのは溜息ではなく、苦笑だった。
「のだめ、」と呼ぶと真っ直ぐの視線が俺を貫く。
「これは………エゴだ。俺の、エゴ。それでも―――付いて来い」
「もちろんデス。むきゃ!」
溢れ出るほどの笑顔で敬礼したのだめの頭をぽんぽんと撫でてやった。
全ては、今日の夜。
俺は、俺なりに、俺の道を突っ走ってみるよ。
――背中を追いかけるんじゃなくて、その背中さえも越していくほどに。
誰にも邪魔はさせない、これが夢ならば終わらせない夢にしてやる。