行方知れずだった指揮者と、”音”を取り戻したピアニストの再出発の日。
清々しい程の晴天に思わずにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「不審者顔してるわよ」と呆れ声に振り返ると、清良の顔。
……そういうお前だって、企みが成功しそうな、餓鬼っぽい顔してるじゃねぇか。
「客の入りは?」
「ばっちりよ。そこら辺に抜かりはない」
「だろうな。……”あっち”の方は?」
「―――大丈夫」
「そうか」
今、俺たちが立っている白い壁が続く廊下の向こう――”会議室”と書かれたプレートの部屋。
音楽関連の建物だからといって、全ての部屋を防音措置にするとは御見それした。
中では、俺様指揮者が自由奔放ピアニストの”課題”に評価をつけていることだろう。
「……”合格”、出来るかしらね。のだめちゃん」
「出来るだろー? あいつなら」
「そうね。……さて、あたしも”あっち”の方の準備、仕上げにかかりますか」
「お、来たか」
窓から見下ろした正面玄関先のロータリーに、紺のワゴンが止まるのが見えた。
そこからいそいそと降りてきた人物が、ひょいと俺たちを見上げる。視線でも感じたのか。
にやにやと、意地の悪い笑みを浮かべながら建物の中へと入ってきた彼に愛想笑いを返しながら、清良は乾いた笑いを零す。
「……あの人も相変わらずね」
「全くな。常任指揮者だろ、一応って感じだけど」
「”あれ”も、普通のやつを選んだんでしょうね?」
「さぁ? ………でもまぁ、仮にも女に見立ててんだ。あの人の目に狂いはないんじゃねぇ?」
「………」
俺の言葉はしっかりと清良には”慰め”として届いたようだ。
じゃ、行くから。と背中を向けた清良の姿をぼんやりと眺めて、俺はもう一度目の前の部屋に視線を向ける。
「…………さっさと出て来いよ」
―――本当に、”課題”、やってるんだよな?
この空気は好きだ。この中にいれば、昼であろうと夜であろうと雨であろうと晴れであろうと関係ない。
ただ、”音楽”という一つのものに支配される。そして、”音楽”すら支配する奴らがいる。
いつものようにスーツの裾を軽く直して、小さく深呼吸した。
胸に高鳴るのは緊張の灯火ではない。歓喜の叫びだ。
それぞれが、それぞれの思いを胸に抱いて、その時を刻一刻と待っている。
誰よりも背後に控える、その圧倒的な安心感を振り返ると、かつてのようにただ瞳を閉じて瞑想していた。
その横には、当たり前のように、まるで空気のように存在する温かさ。
―――本当に、
「久しぶりだな」
「……あぁ」
聞こえていないだろうと思っていた俺の呟きは、しっかりと奴の耳に届いていたようだ。
地獄耳の更に上を越えたか。
だが、俺たちには何の言葉もいらない。それを交わすための時間は、これまでにいくつも過ごしてきた。
だから、俺たちに必要なのは言葉じゃない。だろ?
「俺様シクるなよー?」
「この俺がそんなヘマするか」
「”俺様の音楽を聴けー!” デスか?」
「―――だな」
このバカップルめ……と峰が呟く。その隣を苦笑しながら黒木くんが通り過ぎた。
悔しいー、と喚きながら真澄は背を押され、自信を持った表情の清良がこちらを振り返った。
「任せたよ」という絶対の信頼と、「任された」という絶対の結託。
……あぁ、分かってるさ。「La place de l'ouverture」―――出陣だ。
「………こんなにワクワクする舞台なんて、久しぶり」
「清良」
椅子調整や、楽器のチューニングで微かな音がホールに響く中、立ち上がった清良がぽつりと呟いた。
それを聞き取れたのはコンミスの後ろに座っていた俺ぐらいのもので。
ね、龍。と小さく目元が笑ったのが分かった。
「……そうだな」
「千秋くんと、のだめちゃんの”新たなる第一歩”を共に歩めたこと、私これほどの名誉なことはないと思う」
「俺も、そう思うよ」
「だから、さ。龍」
ヴァイオリンを抱え、舞台の前へと向き直った清良は、じっと客席を見つめた。
それはほんの一瞬で。
でも、この大きな空間に、ひいてはそれ以上の外の世界への”宣戦布告”のような気がして。
それ以降は口を開かなかった清良の気持ちが、痛いほど分かった。
―――だから、さ。龍。………思いっきり、楽しもう?
弦の調律に耳を傾けながら、ちらりと袖口に視線を移すとのだめと千秋が隣同士で見詰め合っていた。
………仄かにのだめの顔が赤いような気がするのは気のせいか? 千秋。
お前ら、本番前(しかも直前)に何をやってるんだよ。やっぱ、そういうところはいつまでもバカップルだな。
よし。俺達の準備は整った。
……じゃ、俺達は王様を”舞台”で待つことにしようか。偉大なる指揮官の下、完全なる勝利を収めるために。
光を切り裂いて、進め。
足を踏みしめ、高らかに歌い出せ。永遠への道は、俺達の手の中にある。