霞んだ世界で歌うなら君と。
空白を切り取る 38


 
 人は全てが輝いて見えるほど、喜びに満ちる時がある。
 人は涙に押し潰されそうになるほど、悲しみに満ちる時がある。
 この世界は何処か儚くて、何処か切なくて、そして何処か美しい。
 見上げる空には厚く雲が覆われていようとも、その先には太陽がある。
 透き通る希望の光だけで成り立つ訳じゃない。

 だから。だからこそ。
 霞んだ世界で歌うなら君と、終わらない真実を奏でよう。
 この、切り取られた純白の世界の中で。


 ラフマニノフの作曲によるピアノ協奏曲第二番。
 その深さと重さを感じさせる和音の連打から始まる調べは、聴く者に訴えかける。
 この前に作曲したピアノ協奏曲第一番での酷評から鬱状態になった彼が、それからの脱出を遂げるまでの苦しみ、哀しみ、想いの強さを歌い上げた、今尚人々に愛される名曲。
 この曲を前にして、思い出すのは―――あの日のことだ。
 「終わるのが惜しい」と切なくなった、あの巨匠との共演の日。
 あれから俺達の時間は進み始めたような気がする。漂うのではなく、前進の時を。

 咳一つしない、呼吸すら感じられない程の静寂の中、つぃと動く二本の腕。
 音もなく鍵盤に寄り添うように添えられた指先はまるでピアノに語りかけるかのよう。
 8度と10度の和音から零れ落ちるメロディは、ラフマニノフの苦悩そのもの。
 濁流の如く全てを薙ぎ去ってしまうようなアルペジオと共にオケが加わる。
 オケの主題とピアノの嵐で綴られる展開部。
 早くも奏でられるあいつの、あいつらしい超絶技巧。
 下手すればまるで俺の方がこの場に取り残されそうなほどの、勢い。
 それはきっと心の闇に抗うための、疾風の脱却。

 水面下の蒼さを表すかのような、深淵の序奏から始まる第二楽章。
 緩やかに、これまでとは違った穏やかさを兼ね備える旋律。
 されどそれだけでは留まらない想いの渦。
 静止を捨て、躍動へと踏み出すピアノ。
 スケルツォを駆け抜け、再び主旋律は弦楽器へ。
 ほら、見えてこないか。
 瞳を閉じて、耳を塞いで、座り込んでしまった暗闇に届く一筋の光が。
 子守唄のように包み込むあいつの音が。

 そしてあいつの音を、俺が、俺達が引き継ぐ。
 光を目指して。いっそ、何処までも飛んで行けとでも誘うかのよう。
 まるで諧謔的に創られた論理の上を進むかのような高揚感。
 オケからピアノへ。ピアノから再びオケへ。
 音は流れ、渡り、鳴り響く。その最果てに、俺達は辿り着けるだろうか。
 短調から長調への橋が掛けられる。
 もはや止めることなど出来る筈がない。
 崩れるか成り立つかの糸の上を俺達は縦横無尽に駆け回る。
 それでも、演奏をすることを止めようとはならない。
 ラフマニノフが絶望に打ち菱がれ、それでも音楽を捨て切れなかったことを、この曲は如実に表している。
 身体が歓喜の震えを望んでいるから。
 その律動感が徐々に高まってきて、ピアノは吹き荒れる。
 音を奏でることへの幸福感。音と出会えたことに対する感謝を。
 のだめのピアノは低音から高音へと舞うかのように指を滑らせる。

 さぁ、光を掴もう。一瞬の静寂を掴み、俺はタクトを振り下ろす。

 オケの高まりと、それを支えるピアノのオクターブ。
 最後の一音まで。全てはそれに収束する。
 シンバルが足音を掻き鳴らす。それは、歩みから駆け足へと変わって。
 何処までも、天上の調べにすら劣ることを知らない奔流を。
 確かに俺はそれを掴んで、引き上げた。
 宙に上げたままだった拳が微かに震えている。
 まるで空っぽになってしまったかのような心の中には。

 ―――ヒトは全てを失ったとき、そのぽっかりと空いた己の中に『希望』が残るんです

 終わりとは、すなわち、新たな始まりだから。
 のだめの言葉が蘇る。あぁ、俺の中には今”希望”が残っている。
 そして、それは途絶えることのない”希望”で。
 ゆっくりと指を開いて、タクトを下ろした。
 全力疾走した心臓はまだ逸る気持ちを受け止めるのに精一杯で。
 瞳を閉じていたことさえ気付いてはいなかった世界に飛び込んできたものは。



「Bravo―――――――――――――!!!!!!!」



 はっ、と面を上げた。視界に飛び込んできたのはオケのメンバーの笑み。
 「早く挨拶してやれよ」と、誰もがその口をぱくぱくと動かす。
 分かってるよ。今、するよ。
 でも待ってくれ。足が震えているんだ。まるで俺の身体じゃないみたいで。
 何処かへ行っていたものが、確かに己の中に帰ってきたような瞬間。
 見上げると、頭上のライトが眩しくて目を細めた。
 もう一度深呼吸をして―――動かない、と思っていた足は案外すんなりと動いた。
 振り向くことすら怖いと思っていた客席はこれまでで一番よく見えた。
 一人一人の顔を見つめて………深く頭を下げる。

 聴きに来てくれたことへの謝辞を。
 今、この場に立てたことへの隠し切れない歓びを。

 傍に備えておいたマイクへと手を伸ばす。
 スイッチを入れると「キ―――ン」という特有の雑音が入った。
 それをやり過ごして、口元に当てる。
 先程までの荒れ狂うような鼓動は、全てを見渡すかのように穏やかになっていた。

「―――皆さん、こんばんは。今夜はようこそおいで下さいました」



「R☆Sオーケストラ指揮者、千秋真一です」



 
絶望さえも受け入れた、穏やかな希望が其処にはある。
 


 

 
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