愛が生まれたなら、それは奇跡と呼んで良いだろう。
空白を切り取る 39


 
 今夜の王様はゆっくりとタクトを下ろし、客席へと振り返った。
 其処に設置してあったマイクを掴み―――そう、”私たち”に分かるように一人一人視線を合わせる。
 それぞれに目礼をして。
 彼はきっと自らの道を何処までも突き進む覚悟を手に入れたのだろう。
 そして、そのために自らが真に欲するものを得ようと動き出したのだろう。
 スイッチを入れたことによる金属音がしばらく響き――彼は口を開いた。
 その低い声は、静かに会場に波紋の如く広がる。
「―――皆さん、こんばんは。今夜はようこそおいで下さいました」
 オケの皆が、ピアニストの表情をしたのだめが、一斉に立ち上がる。
 その洗練された動きに、不覚にも胸がときめいた。あぁ、私もあの中で共に音楽を作り上げられたなら。
 今夜、世界中の誰よりも幸せになるあの子に抱いたのは、そんなつまらない嫉妬だ。
 そんな私の思いも知らないであろう指揮者は、ひたと前を見据えて頭を下げる。
「R☆Sオーケストラ指揮者、千秋真一です」


 「まずは……この二年、行方を眩ませていたことを侘びさせて下さい。俺は弱かった。いや、今でも弱い。けれど弱さは恥ずべきではないことを、不安になるものではいことを知った。それは……俺を支えてくれた多くの人のおかげです。そうでなければ、俺はきっと再び此処に立つことは出来なかっただろうから」
 彼の雰囲気は柔らかくなった。
 それでも俺様は変わらないけれど、何処か自分を、自分の置く状況を冷めた目で見ていたような彼はもういない。
 それは全て、彼女の、のだめのおかげなのだろう。

 あの娘が突如「パリに行く」と告げた日を今でも覚えている。
 授業でさえ真面目に受けているのか、気づけば私たちのお弁当をつまみ食いしていたあの子は。
 はにかみながら、此方も何処か”現実”に目を向けていなかった彼女が、己の足で立っていた。
 それが彼を追いかけともに歩むことで成り立つのなら、と駆けていく二人の背を見送った。
 あの娘は頼りがいがあるようで、本当はとても脆い。
 常に氷上で足を突っ張って立っている。心配は消えなかった。
 二人がデビューして、日本でもよく二人の名前を、「ゴールデンペア」の名前を聞くようになって。
 衝撃を受けた。

 ―――彼が、行方を眩ませた、と。

 シュトレーゼマンがマスコミに伝えたのは、彼は無事であること、音楽活動無期限停止にしたということだけ。
 何処にいるのか何をしているのか……峰さんたちにも、その情報は降りては来なかった。
 それと同時にあの娘の”音の変化”。
 気まぐれが好きなあの娘らしい音が失われた。いつも彼女の音を聞いていた私たちには分かる。
 原因は分かっていた。それでも、パリへ飛ぶこともあの娘に事情を聞くことも出来なかった。
 それだけが、悔やまれた。
 でも、収まるところには収まっちゃうのよね。
 まさか峰さんと同じ感想を抱いているとも知らず、舞台上の彼は見たこともない穏やかな表情を浮かべていた。
 きっとそれが答え。それが結論。
 何のために”私達”が此処にいるのかを彼は理解っている。あの娘は知らないんでしょうね。
 貴方の言葉を聴くため、そして受け止めるために私達は此処にいる。
「次に演奏するのは皆さんは知らないであろう曲です。……そう、私の師であるシュトレーゼマンすら知らないであろう、曲」
 ざわり、と会場が静かに湧いたのが分かった。
 それを予想していたのだろう彼はそれが徐々に収まってから、再び口を開く。
「……初めてこの曲を手掛けたのは大学生の時でした。当時私は――俺は、指揮者になりたくてでもなれなくて自暴自棄になっていた。そんな俺が書いたメロディはのだめによって息を吹き込まれ、峰と真澄と共に彩られた。嬉しかった。俺が伝えたいと思ったことを、感じ取ってもらえたことが」
 そこで彼とのだめの視線が軽く絡まった。
 ひゅーっ、とヴァイオリンを抱えた峰さんが囃し立てる。
 少し頬を染めて、「うるせ」と睨み付けた千秋さまはもう一度視線を私たちに向けた。
「このコンサート、”La place de l'ouverture”は”始まりの場所”という意味です。俺たちがまた一歩から始めるコンサート。その場を、この時間をこうして共に過ごせたことを大変嬉しく思います。それでは……最後の曲を。題名は、A Rhapsody For Nodame―――のだめラプソディ」


 彼らは共に生きてきた。共に喜び、共に苦しみ、共にぶつかって。
 そうして、ここまでやってきたんだ。
 傷ついて座り込んで、もう立ち上がれなくなったとしても。
 お互いを信じ、自らを信じ再び立ち上がることが出来たとき。
 ―――その中で愛が生まれたなら、それは奇跡と呼んで良いだろう。
 それが、彼らの”軌跡”だったのだと。


 盛大な拍手の向こうで千秋さまは背を向けた。其処から立ち上る気配が一瞬にして変わる。
 ――そう、私たちは彼のあの気迫を待っていた。
 再びそれを垣間見れたことに思わず鳥肌が立つ。
 そこに立つのは、本物。
 かつて彼が「本物の魔法使い」と称した彼の師の気配と同じ、本物の威圧感が其処にはある。
 流れるように持ち上げたタクトが一瞬宙で動きを完全に止める。
 息さえも張り詰めたような緊迫感の中で、彼の指先が動いた。

 そして紡がれ始めた彼らの”物語”に、私たちは引き込まれることになる。



 
それは切なく、温かく、想いの溢れる物語。
 


 

 
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