雨は去る。
あたらしい太陽 40


 
 静寂から始めに顔を覗かせたのはピアノの音だった。
 重低音と高音が綺麗に重なる和音がしっかりと踏みしめられるように奏でられる。
 第一主題を繰り返した後に、滑り込むように入ってくるのはそれぞれのパートたち。

 先走る思いを溢れんばかりの音に託すヴァイオリン。
 韻を踏むかのように静かながらも朗々と謳うオーボエ。
 華やかさと艶やかさを含んだクラリネットとフルート。
 柔らかな穏やかが温かいチェロのベースが入ると。
 ティンパニーの連打がクレッシェンドで飾られる。

 一気に鮮やかになったオケ全体での主題。
 その基盤の上をピアノが遊ぶように転げまわる。
 あぁ、まるで。
 これは大学時代ののだめだ。
 音楽に真剣に向かい合おうとはせず、自分の好きなように望むように。
 己の解釈で自由気ままに演奏していた頃ののだめ。
 ならば、オケは千秋か。
 それならば少ししっかりし過ぎている感が否めないオケの音色にも頷ける。
 指揮者以上に指揮者を理解しているオケのメンバーだから出来ること。



 はつらつとした第一主題とは違い、流れるように”大人”を感じる第二主題。
 主旋律を奏でる弦楽器に寄り添うようなピアノ。
 追いかけるように、追いかけられるように。まるであの頃のように。

 此処で突如、オケとピアノはその道を違える。
 切なさに胸が軋みそうになるほどに震えるフルートの音色。
 霞む様に消えたピアノは舞台から一度去る。
 オケは一転低音から入り、弦楽器はピッチカートに変わる。

 ………あぁ、これは”雨”だ。
 唐突にその”風景”が瞳に浮かんだ。知らず溢れてくる涙は何故だろう。
 切なさと、哀しみと、苦しさと。
 それでも失えない期待を胸に秘めて。

 ―――これは彼の、彼らの”二年間”だ。
 それを、彼らは全力で私たちに伝えようとしている。
 きゅ、と右手を握られたのが分かった。ちらり、と視線を移すと同じく涙を零れさせながらも舞台を見つめる友人。
 きっと無意識なのだろう。でも、触れずにはいられない。
 それほど、この音色は寂しすぎる。
 握られた指先に、同じくらい力を込めて握り返した。

 ある時から彼の”時間”は変化を見せる。何かを渇望するように。

    別荘での時間が止まった日々、それでも心に響いたあいつの叫び。
    優しい気持ちになれる鳥の囀りや、木々の間を吹き抜ける風の音。
    全ての音を俺が望んでいて。離れていることなど出来ないのだと、思い知らされた月日。

 オケは収束し始め、ふいにその音色を途切れさせた。
 会場がそれを訝しむ前に、静穏を閉ざしたのはピアノの音。
 千秋さまは指揮をする手を止め、頭を垂れてその音に聴き入っている。
 ………これは、のだめの”二年間”なんだね。
 貴方たちは、音楽を通じて自分たちの時間を語っている。聞かせようとしている。
 そういう、ことなんだね?



「―――のだめ、”課題”についてなんだけど、」
「むきゃ。何ですか? 二人きりじゃないと言えないような内容なんデスか」
「阿呆か。さっき渡した『のだめラプソディ』の総譜、奇怪しいって思ったところないか」
「………あります」
 鞄から取り出された手書きの総譜。
 迷うことなくその中から一ページを開いて、のだめは指を差して示した。
「此処。……何で、”何も書かれてない”んデスか?」
「俺じゃ書けないと思ったから」
「はい?」
「お前が、作ってくれ」
「のだめが?」
「あの二年間、俺はお前を知らない。何を見て、何を考え、何を思って生きてきたのか……のだめが見たもの、聴いたもの、感じたもの―――のだめの『思い出』を聴かせて欲しいんだ」
 それが、お前にやる俺からの”課題”。
「……出来るか?」
「―――分かりました。のだめも、真一くんに聴いて欲しい。二年間、のだめがどう感じて過ごしてきたのか」
「任せた、ぞ」
「ハイ!」



 聴こえてますか。感じていますか。
 私の二年間を、貴方は見えているでしょうか。
 笑顔だけではなかった。涙だけでもなかった。
 それでも、失う苦しさは、貴方と同じくらい気づいた二年間でした。
 不思議ですね。
 あんなに苦しかった筈なのに、悲しかった筈なのに、いつかは微笑って話せるような気がするんですよ。
 それすらも私達が歩んできた道だから、抱きしめてあげたくなる。
 聴こえていますか。
 私の想いは、貴方に届いていますか。
 もう二度と、そんなに悲しむような顔で、笑ったり、しないで下さい。
 貴方が何かに涙する時は、私が一番近くで抱きしめているから。
 耳を塞ぎ、瞳を伏せて、抱きしめているから。
 だから―――雨は去る。
 止まない雨などない。明けない夜はない。伝われ、この己を締める最大限の想いよ。



 
遠回りをしたね。貴方を傷つけてしまうこともしたね。
それでもこうして語り合える日が再び来たことが、何よりも愛しいよ。
 


 

 
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