たまに振り返る未来には。
あたらしい太陽 42


 
 かたん、と足をペダルから離した音が響いた。
 ふぅと息をついても拍手は起こらない。あれ。あれれ。
 軽く混乱した視線はぼんやりと観客席を回って、指揮者の元へと動いた。
 どうしたんだろう。
 何があったんだろう。
 私達の音楽は、――私の”二年間”は、皆に受け入れてはもらえなかったんだろうか。
 そんな不安が胸を過ぎる。
 じんわりと滲んできた視界に移りこんだのは、こちらを見つめる真一くんの苦笑だった。


 ………何が。起きたの?


 状況が理解できない私は、いつまでもピアノの前に座ったままで。
 苦笑を深めた真一くんが自ら指揮台を降りて、手を差し伸べてくれた。

「おい、挨拶しなきゃ始まらないだろうが」
「……え、でも、……拍手?」
「鳴らないな。―――だから、どうした?」
「え?」
「まだプログラムは終わっちゃいない」
「…………えぇ?」
 オケの皆の個人演奏があって。
 ラフマのピアコンを演奏して。
 それから、のだめラプソディを皆で奏でて。
 ……それで、終わりじゃないの?

 私の思いはとっくにお見通しだ、とでも言いた気に真一くんはちらりと私の後ろを見た。
 一緒に振り返ろうとした私の頬を包んで、顔を元に戻す。
 そんな私の耳に真一くんの声が降って来るのと、後頭部に何かがぽんと乗せられたのは同時だった。
 ふわりふわりと揺れる、この布はなぁに?
「――のだめ、お前に……伝えたいことがある」


 それを合図に、オケの皆が一斉に動き出した。ピアノを数人がかりで脇へと寄せる。
 それだけで随分と広くなった舞台の上で、真一くんはポケットから何かを取り出した。
 ………箱?
 誰もがしんと静まり返ったホールの中で音一つ立てない。だから、真一くんの声はよく通る。
 そして、誰もがその言葉を一言一句漏らさず受け止めているように思えた。
 だから、こんなにも真一くんの瞳は温かい。
「皆に来てもらった」
「え?」
 ほれ、と視線を促されるとそれまで見えてなかったものが見えてくる。
 一般のお客さんの他に、前列に座っている観客達……ミルヒー、お父さんとお母さん、佐久間さんとけえ子さん、マキちゃん達や、ジャン、ターニャ、ユンロン、フランク、リュカ、ゆうこさん、Sオケ時代のメンバーも何人かいる。それから、にやにや笑みを絶やさず此方に手を振ってる松田さん。
 思わず振り返そうとすると、すかさず「あれは無視して良いから」と真一くんに止められた。
 こほん、と咳払いが一つして―――私は思わず姿勢を伸ばす。
「……皆に、見て欲しかったんだ」
「何を?」
「お前の笑顔を」
 きっぱりと言い切った真一くんに、私は目を見開く。
 何て言った? 私の、笑顔?
「俺達をずっと見守って、支えてきてくれた人たちに。お前の笑顔を見て欲しかった。有難う、って伝えたかった」
「……」
「俺は弱い。お前よりも、きっとずっと弱い。それでも、お前がこの間言ってくれた言葉は俺も同じ」

 ―――何があってもとは言わないよ、だけどね。世界の全員が貴方を意味のない理由で責め立てたときに、貴方の耳を塞いで、前に立って世界を見えなくするぐらいならできると思う。……それじゃあ、駄目ですか? 頼りないですかね?

「これからも迷惑をかける。……不安にさせるかもしれない。心配をかけるかもしれない」
「しんいちくん、」
「それでも、お前には笑っていて欲しいんだ」
 ずっと、――― 一生。だから、のだめ。
 そう言いながら手の中にあった箱を私の掌に乗せる。あぁ、いつだかもこうしてもらったことがあった。
 ……あの時は断ってしまったけれど。
 今は、別の何かが私を支配している。
 彼の細長い指がゆっくりとその箱の蓋を押し開けたとき、懐かしいものが目に飛び込んできた。
 それだけで、もうアウトだった。
 彼が覚えているとは思わなかった。いつの間に手にいれたんだろう?
 それは、遥か昔、私達がまだ幼くてお忍びで日本に帰ってきたときに私が一目惚れした指輪。
 決して高価とは言えないけれど、それ以上に温かみが心を埋め尽くしてくれるようで。
 何も言わなかったから、きっと気付いてはいまいと思っていたのに。

「………結婚してくれないか」

 涙が溢れて止まらなかった。あぁ、これが私の”幸せ”なのだと。
 私が私の音を奏で続けられる源だったのだと。
 そして、こんな――聴衆の前で、まるで誓うかのように想いを告げてくれたこの人を心底愛しいと思った。
 こんなことを好んでするような人ではないのに。
 伝えてくれる時は、目を逸らしながらまるで命令かのようにぶっきらぼうに伝えられるかと思っていたのに。
 ……そーゆーことをやってのけるんだから、のだめは貴方に一生敵いません。
「……おい?」
「もっと、……命令口調かと思いました」
「じゃあ何か。『結婚しろー』とでも言わせるつもりだったのか、此処で」
「俺様指揮者デスから」
「……てめ、」
 いつもの調子に戻ろうとした時、真一くんは「まったく」と溜め息をつきながら肩を震わせた。
「泣きながら笑うな、器用な奴。で、もう分かってるけど、返事は?」
「……よろしくお願い、しマス」
 今、私に出来る、最大限の笑顔で答えた。「おう」と笑う真一くんの笑顔を、一生覚えておこうと思った。
 まるで今の真一くんは魔法使い。
 厚い雲の向こうでいつでも輝いている、私の新しい太陽そのものだった。


 あぁ、そうだね。
 ゆっくりゆっくり歩いていきながら。立ち止まったり、横道にずれたりして。
 そうして、たまに振り返る未来には。いつでも貴方に傍にいて欲しい。



 
だって、何だかそっちの方が私達らしいじゃないか。
 


 

 
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