寄り添いながら笑いあうなら。
いとしさの残存 44


 

 ―――そう、寄り添いながら笑いあうなら。


「……チーアキ」
「シュトレーゼマン!」
 宴会も酣。
 ほとんどの客を見送り、のだめは普段着に着替えてくると会場を去った。
 先ほどまで呑んでいた峰も清良が連れて帰り、会場の職員たちが片付けに入っている。
 それをぼんやりと眺めていたら、声をかけられた。
 シュトレーゼマンに。
 エリーゼの姿が見当たらないから、もう仕事か何かで此処を離れたと思っていたのに。
 にこにこと笑う顔が紅潮しているのは、やはり酒だろう。
 いい歳なんだから、体調には気をつけてもらわなければならないのに。
「イイ式でしたネ」
「……有難うございます。あ、あいつ今控え室行ってて……」
「あぁ、のだめチャンはまた今度。今は、チアキにお話がありマス」
「…………はい」
 気分はさながらRPGのラスボスを前にしたようなものだ。
 この人には、迷惑を数え切れないくらいかけた。
 俺が雲隠れしていた二年、糾弾を受けたのは俺だけではない、彼もだ。
 それなのに俺を庇い、隠し、自らが受けた損害を「こんなもの」と笑い捨てる。
 だから、俺はこの人に一生頭が上がらないのだろうとも思う。
「まず、何か言うコトは?」
「ご迷惑を……おかけしました」
「………」
「………」
「ホントですヨ、チアキ。私、もう歳なんだカラ大切にしてもらわないと」
「すみません……」
「でも、不合格」
「え?」
 深く深く下げた頭をようやく上げてシュトレーゼマンを見上げる。
 其処には腕を組んで苦笑を浮かべた巨匠の姿。
 それだけで貫禄があり、思わず息を呑んだ。
「チアキ、確かに人は逃げ出したくなるときがありマス。そして、チアキは誰よりも自分に厳しい人だから、何よりも自分が許せないだろうと思った。音楽を否定するのは哀しい。でも、自らさえも否定するのはもっと悲しいことデス」
「……はい」
「そして、其処まで離れてしまった心と身体を繋ぎ止められるのは、チアキだけの”女神”だと思った」
「………の、――」
 かつて、俺に日本に戻れ、と言った時と同じように。
 俺と巨匠の間では”女神”の名を呼ぶことは許されない。
 口唇の上に軽く人差し指を乗せたまま彼は笑みを描いた。
「でも、チアキは誰よりも厳しく、そして……優しいから、自分を戒めるモノから彼女を遠ざけようとした。だから、雲隠れしろと言ったんデスよ」
「……」
「彼女を失うことが、どれだけ辛く哀しいか――あの二年、思い知ったでしょう?」
「ええ、本当に」
 空虚に満ちた時間。
「そして、同時に音楽を渇望する悦びを感じ取れたでしょう?」
「はい」
 離れていたものが、確かに自分の中に還って来た感触。
「だから、不合格デス」
「え?」
「それを学び、感じ取ったのはチアキです。私のおかげではナイ。だから、チアキ。此処で言う言葉は謝罪ではない」
「………」
「此処で伝えるべきは、感謝の想いデスよ」
 ……あぁ、そうか。
「………」
「………」
「………と、……した」
「ハイ」
「あり……ッ、…ご……ました……ッッ」
「ハイ」
「……ッ、…………ありがとうございました………ッッッ」
 溢れてくる涙が止まらない。止め方すら、分からない。
 でも、確かに何か温かいものが心を占めていて、そして胸が鷲掴みされたようにぎゅう、と苦しくなる。
 喉が詰まって息苦しかったけれども、それすら忘れて頭を下げた。
 俺の”感謝”をシュトレーゼマンはただ微笑んで、頷きながら聞き続けていてくれた。
「―――チアキ、」
「………はい」
「おめでとう」
「―――ッ!」
 おそらく真っ赤な瞳で、目の前の巨匠を見つめた。
 その言葉が、もしかしたら俺は何よりも嬉しかったのかもしれない。
 彼に認められたということが、俺達の軌跡を、この人にそう言ってもらえたことが。
 再び潤み始めた視界で、「はい」と言葉少なにそう答えることしか出来なかった。
「おめでとう。お幸せに、ネ」
「……はい……っ」
「その手を離しては駄目デスヨ、―――のだめチャン?」
 は、と振り返った先には、いつものワンピースに身を包んだのだめ。
 その顔はきっと俺よりも涙でぐちゃぐちゃで。
 でも、例えようも無く、愛しかった。
 頬を流れる涙を拭うこともせず、のだめはにっこりと微笑んだ。
 その笑顔を護りたいと想った。
 想っていくのだ、と誓った。
 護れる立場にようやくなれたことに、身体が歓喜に震えた。
「……もちろん、デスよ。こんなに、優しい人の手を……離せない、から」
 繋ぐのは二人の覚悟と決意。
 離したのは、互いの幸せを願ってのこと。
 くたびれた身体と心を繋いだのは、やっぱり二人の手。

 あぁ、そうか。
 どうしても捨てきれないものがあることを知った。
 どうしても譲れないものがあることを知った。
 これから先、寄り添いながら笑いあうなら―――あいつがいい。
 あいつがいれば、それで充分だ。それ以外は何も望まない。

「……ようやく見届けられましたネ、”親孝行”」
「え?」
「さて、私も仕事が残ってマス……さっきからエリーゼからの電話が鳴っていて」
 そう言って見せた携帯は、今も着信を告げ震えていた。
「師匠と弟子の感動のシーンを邪魔するというのは無粋デス」
 出口へと向かって歩き出したシュトレーゼマンは、「あぁそうそう」と振り返った。
 にやり、と彼らしい笑みをのせて。
「チアキ、帰ってきたらたんまりと仕事がありますカラ、是非ともそのつもりで、ネ」
「―――ッ! はい!」
 ”親孝行”だ。
 多少の犠牲は我慢して、「仕事」を片付けてやろうじゃないか。
 ……例え、エリーゼの個人的な嫌味も含まれた「仕事」であろうとも。



 
誰よりも尊敬する貴方に、至上の深謝を。


 

 
inserted by FC2 system