―――そう、寄り添いながら笑いあうなら。
「……チーアキ」
「シュトレーゼマン!」
宴会も酣。
ほとんどの客を見送り、のだめは普段着に着替えてくると会場を去った。
先ほどまで呑んでいた峰も清良が連れて帰り、会場の職員たちが片付けに入っている。
それをぼんやりと眺めていたら、声をかけられた。
シュトレーゼマンに。
エリーゼの姿が見当たらないから、もう仕事か何かで此処を離れたと思っていたのに。
にこにこと笑う顔が紅潮しているのは、やはり酒だろう。
いい歳なんだから、体調には気をつけてもらわなければならないのに。
「イイ式でしたネ」
「……有難うございます。あ、あいつ今控え室行ってて……」
「あぁ、のだめチャンはまた今度。今は、チアキにお話がありマス」
「…………はい」
気分はさながらRPGのラスボスを前にしたようなものだ。
この人には、迷惑を数え切れないくらいかけた。
俺が雲隠れしていた二年、糾弾を受けたのは俺だけではない、彼もだ。
それなのに俺を庇い、隠し、自らが受けた損害を「こんなもの」と笑い捨てる。
だから、俺はこの人に一生頭が上がらないのだろうとも思う。
「まず、何か言うコトは?」
「ご迷惑を……おかけしました」
「………」
「………」
「ホントですヨ、チアキ。私、もう歳なんだカラ大切にしてもらわないと」
「すみません……」
「でも、不合格」
「え?」
深く深く下げた頭をようやく上げてシュトレーゼマンを見上げる。
其処には腕を組んで苦笑を浮かべた巨匠の姿。
それだけで貫禄があり、思わず息を呑んだ。
「チアキ、確かに人は逃げ出したくなるときがありマス。そして、チアキは誰よりも自分に厳しい人だから、何よりも自分が許せないだろうと思った。音楽を否定するのは哀しい。でも、自らさえも否定するのはもっと悲しいことデス」
「……はい」
「そして、其処まで離れてしまった心と身体を繋ぎ止められるのは、チアキだけの”女神”だと思った」
「………の、――」
かつて、俺に日本に戻れ、と言った時と同じように。
俺と巨匠の間では”女神”の名を呼ぶことは許されない。
口唇の上に軽く人差し指を乗せたまま彼は笑みを描いた。
「でも、チアキは誰よりも厳しく、そして……優しいから、自分を戒めるモノから彼女を遠ざけようとした。だから、雲隠れしろと言ったんデスよ」
「……」
「彼女を失うことが、どれだけ辛く哀しいか――あの二年、思い知ったでしょう?」
「ええ、本当に」
空虚に満ちた時間。
「そして、同時に音楽を渇望する悦びを感じ取れたでしょう?」
「はい」
離れていたものが、確かに自分の中に還って来た感触。
「だから、不合格デス」
「え?」
「それを学び、感じ取ったのはチアキです。私のおかげではナイ。だから、チアキ。此処で言う言葉は謝罪ではない」
「………」
「此処で伝えるべきは、感謝の想いデスよ」
……あぁ、そうか。
「………」
「………」
「………と、……した」
「ハイ」
「あり……ッ、…ご……ました……ッッ」
「ハイ」
「……ッ、…………ありがとうございました………ッッッ」
溢れてくる涙が止まらない。止め方すら、分からない。
でも、確かに何か温かいものが心を占めていて、そして胸が鷲掴みされたようにぎゅう、と苦しくなる。
喉が詰まって息苦しかったけれども、それすら忘れて頭を下げた。
俺の”感謝”をシュトレーゼマンはただ微笑んで、頷きながら聞き続けていてくれた。
「―――チアキ、」
「………はい」
「おめでとう」
「―――ッ!」
おそらく真っ赤な瞳で、目の前の巨匠を見つめた。
その言葉が、もしかしたら俺は何よりも嬉しかったのかもしれない。
彼に認められたということが、俺達の軌跡を、この人にそう言ってもらえたことが。
再び潤み始めた視界で、「はい」と言葉少なにそう答えることしか出来なかった。
「おめでとう。お幸せに、ネ」
「……はい……っ」
「その手を離しては駄目デスヨ、―――のだめチャン?」
は、と振り返った先には、いつものワンピースに身を包んだのだめ。
その顔はきっと俺よりも涙でぐちゃぐちゃで。
でも、例えようも無く、愛しかった。
頬を流れる涙を拭うこともせず、のだめはにっこりと微笑んだ。
その笑顔を護りたいと想った。
想っていくのだ、と誓った。
護れる立場にようやくなれたことに、身体が歓喜に震えた。
「……もちろん、デスよ。こんなに、優しい人の手を……離せない、から」
繋ぐのは二人の覚悟と決意。
離したのは、互いの幸せを願ってのこと。
くたびれた身体と心を繋いだのは、やっぱり二人の手。
あぁ、そうか。
どうしても捨てきれないものがあることを知った。
どうしても譲れないものがあることを知った。
これから先、寄り添いながら笑いあうなら―――あいつがいい。
あいつがいれば、それで充分だ。それ以外は何も望まない。
「……ようやく見届けられましたネ、”親孝行”」
「え?」
「さて、私も仕事が残ってマス……さっきからエリーゼからの電話が鳴っていて」
そう言って見せた携帯は、今も着信を告げ震えていた。
「師匠と弟子の感動のシーンを邪魔するというのは無粋デス」
出口へと向かって歩き出したシュトレーゼマンは、「あぁそうそう」と振り返った。
にやり、と彼らしい笑みをのせて。
「チアキ、帰ってきたらたんまりと仕事がありますカラ、是非ともそのつもりで、ネ」
「―――ッ! はい!」
”親孝行”だ。
多少の犠牲は我慢して、「仕事」を片付けてやろうじゃないか。
……例え、エリーゼの個人的な嫌味も含まれた「仕事」であろうとも。
誰よりも尊敬する貴方に、至上の深謝を。