人は一人じゃ生きていけないから、貴方がいないと生きていけない人も、きっといるはずなんです。
たくさんの愛に、やくそくはひとつだけ 45


 
 その姿は、さながら地上に舞い降りた天使のよう。
 誰もが見惚れるその笑顔は花が咲き誇ったようで。
 ―――世界一の幸せな花嫁。
 うん、そんな表現がぴったり似合う。
「清良さん〜」
「なぁに?」
 本日の花嫁の出来映えに、うんうんと頷いて悦に浸っていると背後から何とも情けない声。
 よたよたと頼りない足取りで駆けて来る花嫁は泣きそうな顔をしていた。
「どうしたのよ、今日の主役が」
「むきゅ……お腹が空いて、倒れそうデス……」
「あー……ドレスだものね」
「着替えちゃ、駄目デスか?」
「………」
 千秋くんは、きっとこのちょっと首を傾げた彼女のうるうるな瞳に弱いんだろうと悟った。
 思わず頷こうとして―――て、違う違う!
「でも、今我慢すれば家に帰ってから千秋くんが何か作ってくれるかもよ?」
「む?」
「噂によれば、随分なシェフなんでしょ? 千秋くん」
「そうなんデスよ! のだめの命綱なんデス、千秋先輩」
「あらあら、今日からのだめちゃんも”千秋さん”なんだけど?」
「ふみゅう……ッ!」
 顔を真っ赤にして。おどおどとうろたえて。
 でも、身体中からあふれ出すオーラは悦びに満ちたもの。
 ……そう、大好きな人から告げられた唯一つの言葉は、女をここまで綺麗にさせる。
 ――唯、一つの言葉が。
「……清良さん?」
「――え? あ、ごめんなさい……ちょっとぼうっとしてて」
「……。のだめは、莫迦なんです」
「え?」
 思わず振り返ったのだめちゃんの瞳は、先程までとは違う真剣味を帯びていて。
 千秋くんと夫婦漫才をしているような軽さでもなく、ピアニストとして舞台に上がるときの表情でもなく。
 穏やかさと厳しさを兼ね備えたような。
 彼女は浅く俯き、手に持つブーケを緩やかな視線で眺める。
「互いの手を離すことが、相手の”幸せ”のためだと信じて疑いもしなかった。そのせいでどんどん消えていく”自分らしさ”に縋りついて、震えて、周りを拒絶して。そうして更に状態が悪化していくのを止める事も出来なかった」
「……」
「一人でも生きていけると……そう、彼を傷つけるのでしかない自分なら、彼の苦しみを分かってあげられなかった私なら、彼の手を離しても一人で生きていけると思ってた。何て傲慢、何て愚か」
「のだめちゃん、」
「でもね? 清良さん」
 のだめちゃんは、ふわりと笑った。いつもの彼女が一瞬、戻ったような気がした。
 そして気付いた。
 これは、彼女が私達の前で始めて漏らした”本音”なんじゃないかと。
 私達は千秋くんが語った彼らの二年間を知っている。
 でも、その間彼女は部屋の外で、一人二年の記憶と闘っていた。

 彼女は、聴いてもらいたかったんだろうか。
 だからのだめラプソディに想いを込め、そして今私にその口を開く。
 それなら、私には彼女の想いを受け止める義務がある。そう思った。

「今はそれで良かったと、思うんです」
「……良かった?」
「はい。あのまま……ずぅっと一緒にいて、でも互いを全く理解し合えないままいたら、それこそ本当に駄目になってしまったかもしれない。だから、一度離れて互いの存在意義を確かめ合えたことは、私達にとっては幸運なんです」
 強いな。
 彼女は強い。そう思った。
 そう思えるまで、口に出せるまでに二年かかったのだろう。
 だからこそ、彼女の言葉の重みは違う。
 私はいつまで待てるだろう。
 安心したいがために、縋りつきたいがために、待ち続けている唯一言を。
 私が泣きそうな顔をしていたのか、のだめちゃんの顔が切なそうに歪められた。
 何度か口を開いて――先程までの、はきはきとした口調とは全然違う、細やかな声音が届いた。
「ゴメンナサイ…」
「え?」
「私達が、こんなことになってしまったからでしょう? 清良さんがそんな表情(かお)をするのは」
「―――!」
「本当なら、こうして此処に立つのは私達じゃなくて、清良さん達が先に……」
「違う、違うよ?!」

 そうじゃない。

 この二年、違う……もっと前から。
 そんな雰囲気は二人の間にあった。クリスマスとか、誕生日とか。
 やけに龍が意気込んでいるな、と感じる度に密かに鼓動が跳ね上がるのを隠していた。
「結婚しよう」
 今まで冗談やノリで何度も言われた言葉。それでも、ここぞという時に彼から聞かされる言葉を何よりも楽しみにしていた。
 そうして、二年前の晩秋。
 千秋くんがいなくなった。
 次に、のだめちゃんの”音”がおかしくなった。
 パリまで行く、と聞かない龍を何とか宥めて、二人が一緒に帰ってくるまで待とうと説得して。
 オケのメンバー同士で連絡を取り合いながら、二人の雰囲気は一変してしまった。
 どうしても、そんな雰囲気にはなれなくて。
 それから少し経って、今度は黒木くんが彼女と駄目になったらしい、という話を聞いた。
 ずっと前に会った時は、あんなに嬉しそうに……楽しそうに彼女の話をしていたのに。
 そして二人の間ではこの話題はしない、という暗黙の了解みたいなのが出来た。

 でも、決して彼女達が悪い訳じゃない。
 二人で決めた。そう、二人がそうしようと決めたの。
 幸せになるなら、皆で幸せになりたい。
 誰一人が欠けても成り立たないの。
 皆から「おめでとう」って言われる夫婦になりたかったの。
 だから、待とうと決めた。
 ……それは、私達の我侭で、エゴなんだよ?

 必死に訴えると、彼女はようやく哀しげな笑みを浮かべた。
 今日、世界で一番の幸せな花嫁に、こんな表情をさせたい訳ではない。
「じゃあ……」
「ん?」
 彼女の小さな言葉一つ一つ聞き逃さないとばかりに、顔を近づけるとのだめちゃんは苦笑しながらブーケを差し出した。
 あたしにはまるで花言葉なんて分からない花束。
 でも、見ているだけでわくわくするような、嬉しくなるような花束。
 反射的にそれを受け取り―――意図の掴めない彼女を見遣る。


「次は、清良さんの番、でしょ?」


 込み上げてきたものを必死で押し留める。
 柄にもなく大声で泣きそうになって、のだめちゃんに抱きついた。
 ブーケを受け取った人は、次に愛する人と結ばれる。
 そんなお話を今は、今くらいは信じてもいいかもしれない。
 震える肩をそっと抱いて、のだめちゃんは小さく小さく歌うように呟いた。
「……のだめはね、真一くんが居ないと駄目なんです」
「―――うん、」
「世界に一人だけは、そういう人がいるって、のだめは思うんです」
「―――うん、」
「だからね、」


 ―――人は一人じゃ生きていけないから、あなたがいないと生きていけない人も、きっといるはずなんです。


「だから、のだめは清良さんに……清良さんだからこそ、幸せになって欲しい」
 受け取ってもらえますか?
 そう微笑んだ彼女の笑顔を、私はきっと忘れない。
 それは、きっと幸せになるための魔法の言葉。
 だから私も忘れない。

 私だって、龍が居なくちゃ生きてる意味なんてないんだから。



 
静かに見守ってきてくれた貴女に、倖せを届けさせて下さい。
 


 

 
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