最初に、舞台の上から眼が合った時から何となく予想はしていた。
あの日々は決して忘れられるものではなく。
むしろ、離れたが故に強く強く心に居ついてしまうようになった。
良い式だったな、と和む想いで会場から一歩踏み出す。
途端に冬の冷たい空気に包まれて、酔いで火照った頬に心地良かった。
今の時間帯だと、駅に着くまでに終電は去ってしまうだろう。
タクシーを拾うか。
そう思い振り返ろうとして―――服を引っ張られた。
同じ目線のまま後ろを見て、ふと視線を引き下げる。
『……………ターニャ、』
あの頃と変わらない彼女がいた。
『………演奏、どうだった?』
『! ………あの、とても……良かった。感動、したわ』
『そう。良かった』
『あんなサプライズパーティがあるとは思わなくて。二人が上手くいって、良かった』
『本当にね』
『……』
『……』
続く沈黙に、二人で暗闇に立ち尽くす。
でもこの空間が嫌いだとは思わない。かつて、愛しいと思った空間。
……かつて?
いいや、今だって、こんなにもこの空間が愛おしいと思ってる。
何物にも代え難いと。
こんな日に便乗して、なんて思いはしないけれど。
……こんな日だからこそ、自分の感情に正直になったっていいだろ?
『――ターニャ。いつまで滞在するの?』
『え……と、二日後までよ。フランク達とそれまでは自由行動しよう、って』
『そう。なら、好都合だな』
『え?』
眼を瞬いた彼女の手首を掴んで歩き出す。タクシーなんて後で何処かで拾えばいい。
ちょっと、とか待ってよ、とか喚く彼女の意を汲もうなどとは一切思わない。
いつになく強引なのは酒が入っているせいだろうか。
『ちょっ……もう、泰則!』
彼女が友人達が呼ぶ「ヤス」ではなく、僕自身の名を呼んでくれるようになったのはいつだったか。
知らず笑みが浮かんで、気分は最高潮で、走るかのような勢いで歩いた。
頬が少し冷たいのは……雪が降ってきたからだろうか?
『ねぇ、何? 何処に行くのよ!』
『―――僕の実家』
『は………は? 実家……?』
『そう。――幸せになりたくない?』
僕は、幸せになりたいよ? 君と、一緒ならね。
「もー……何処まで酔ってんのよ、この莫迦は」
「うぃー」
「ちょっと! 重いんだから、しっかり歩きなさいよ! この莫迦!」
あたしはブーケ持ってんのよ! 潰れちゃうでしょ!
かつてのクリスマスの夜とは逆、清良が峰を抱えてあの時と同じ道を歩いている。
風が吹くたびに身が竦むような寒さに包まれるが、やたらと体温が高い隣の男のおかげであまり感じない。
ご機嫌にも鼻歌などを歌いだして――しかものだめラプソディだ――、悠々と歩く。
その背中をぼんやりと眺めて、先程ののだめとの会話を思い出した。
――人は一人じゃ生きていけないから、あなたがいないと生きていけない人も、きっといるはずなんです。
この男は。
この男は、一人で生きていけるのだろうか。
飄々として、何処か掴みきれないところがあって、でも本当は誰よりも頼りになるこの男は。
もしかしたら、一人で生きていけるくらい、――強いのかもしれない。
私が待つと決めた時間を、この男はさっさと歩いて行ってしまうのかもしれない。
今、こうして先に足を進めるように。
そうして、私は一人、「独りでは嫌だ」と泣きながら崩れ落ちてしまうのかもしれない。
「……あー、”空の唄”だな」
「え? あ、雪……」
見上げるとちらりちらりと雪が降り出していた。
”空の唄”の話を教えてくれたのも、のだめだった。
空を見上げたままでいると、「清良」と峰が声をかける。
体制を戻して峰を見ると、少しだけ首の後ろが痛かった。
ほんのり頬を火照らせたまま、清良を真っ直ぐ見つめる。
――その瞳に、囚われた。
「清良、」
「……なぁに?」
自然に。
そう思うほど、言葉はつっかえ、声は上擦る。
「とりあえず謝る。―――ごめん!」
「は………、は?」
「お前がずっと不安に思ってたこと知ってた。知りながら、目を背けてきた。これじゃいけないって思いながら、清良が何も言わないのを優しさだと思い込んで、あまつさえそれに胡坐をかいてた」
「え……龍?」
このままで居ようと決めたのは二人。
それでも、ふいに見せる彼女の哀しげな瞳が気になって仕方なかった。
そうして、今日会場で垣間見た彼女の涙。
のだめからブーケを手渡されて。
あぁ、まるで彼女が。
―――次の花嫁のように思えて。
「……そういうの、酔いながら言うもんじゃないわよ」
「減らず口。こういうのはちょっとくらい酒が入ってないと言えねぇもんなんだよ」
「………」
「泣くな」
「泣いてない」
「嘘付け、めちゃくちゃ泣いてんじゃねぇか。……俺がいないと駄目なくせに」
「………、龍だって、あたしが……いなくちゃ、駄目じゃない」
「当たり前だ」
言い切った彼の顔を見上げる。にかり、と笑った、いつもの笑顔。
「俺の全部は清良で成り立ってる。――お前がいなきゃ、生きてたって仕方ねぇよ」
「………ッ! ばかばかばか、……卑怯よ……ッ」
「……悪いとは、言わないぞ? ―――これからも、ずっと、一緒にいてくれ。清良」
願うことなら、死が二人を分かつとも。
「御馳走さまでした! 美味しかったデス、真一くん」
「それは良かった。しっかし、凄ぇ食いっぷり」
「お昼から何も食べてないから……ドレスは窮屈で何も入らないんデス」
「はいはい」
デザートあるけど、食うか? という問いに、迷わず首を縦に振った。
その仕草にぷっ、と噴出し、「ちょっと待ってろ」とキッチンに向かう。
ふと窓に視線を向けると、踊るように降る空の唄。
思わず駆け寄って眺めていると、窓に真一くんの姿が映った。
後ろに立ち並んで、一緒に景色を眺める。
「ねー、真一くん?」
「ん?」
「真一くんは、のだめがいないと駄目、デスか?」
「………急に、何」
「いや……聞いてみたいなぁ、と思って」
「……」
「真一くん?」
此方をちらり、と見下ろしてすぐに視線を逸らした新妻ならぬ新夫は部屋の中に戻る。
「え、真一くーん? 質問は?」
「……うるせ。今日、お前がいないと駄目になるって誓ったばっかだろ!」
「………」
「………」
「え、へへ……むきゃ、のだめも真一くんが居ないと駄目デス〜!!」
「引っ付くな!」
「むむ! 愛しの妻にそんなコト言いますか?! 抱きついてやるー」
「うぉ! 落ちる!」
思いっきり背中に飛びついたら勢いがつき過ぎて、二人でベッドに転がり込んだ。
「危ねぇだろ!」と一喝され、その後優しく力強い腕に包まれる。
此処が私の場所。私を彩る、始まりの場所。
穏やかな鼓動が聞こえて、温かなぬくもりを感じることが出来る。
何て至福の場所。
「しんいちくん」
「んー?」
「……大好きデス」
「知ってるよ」
「しんいちくんは?」
「……知ってるだろ」
「妻は言葉で聴きたいデス」
「……スキルアップしやがって」
何のスキル? と首を傾げたら、体勢が変わって、目の前に真一くんが来た。
優しい瞳で見下ろされて、思わずのだめも笑顔が浮かぶ。
「真一くんが照れ屋さんだから、のだめがその倍”好き”って言いますね」
「少ない方が有り難味、分かるか?」
「その俺様発言も、妻だから許してあげマス」
「それはどうも、愛しの奥さん」
「………ッ! やっぱり、毎日好きって言ってくだサイ。これは癖になりマス」
「阿呆かー」
デザート出しっぱなしだし、リビングの電気も点きっ放し。
でも此処を抜け出そうなんて無粋な考えは浮かんでこない。
「ずっと一緒、デスよ?」
「あぁ。……ずっと一緒、だ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「ほんとの、ほんとに?」
「ほんとの、ほんとだ」
「ほんとの――」
「………もー黙れ」
それは、未来までの遠い約束。
硬く壊れる事を知らぬ冷たさに刻まれた証のようで、――淡く溶け染み込む温かな光に、似ている。