―――神は、サイコロを振りはしない。
目を開けると、明るかった室内に夕焼けが溶け込んでいた。
ぼんやりとした意識の中、俺の目を惹き寄せたのは微かなピアノの音だ。
窓も部屋同士を繋ぐドアも開けっ放しで。
でも音が小さいのは、きっと俺を起こさないようにという配慮なのだろう。
ソファから起き上がると、その軋みに気づいたのか恵がこちらを見た。
ピアノを弾く間は外している左手の指輪は、首から下げられているネックレスにかかっている。
「おはようデス、真一くん」
「おはよう」
恵はやさしい音色をゆったりとしたリズムのまま、紡いでいる。
それをぼんやり眺めながら、ふと今まで見ていたような夢を思い出した。
………随分と、長く、苦しい、夢だった。
世界の果てには神様がいるのだと、いつだったか母は言っていた。
あぁ、神様。
貴方など、今だってこれっぽっちも信じちゃあいないが。
もし、本当にいるのだとしたら、俺は貴方に伝えたいことが、一つだけある。
俺は。
崩れ行く怖さを知っている。堰き止められない「何か」に涙する想いを知っている。
手を伸ばすだけでは届かない、悔しさを知っている。
そして、温かさを取り戻した時の心の安らぎを、覚えている。
俺とあいつが出逢えたことが貴方の施した”運命”なのだとすれば、俺とあいつがともに歩むことを選んだのもまた、”運命”だったのだろう。
ただ、それは神でも不可思議な力でもない、俺達自身が望んだ”未来”だったから。
人の一生は音楽に似ている。
何時の間にか始まり、やがていつかは終焉を迎える。
その中で楽しいことや悲しいこと、辛いこと、嬉しいことを乗り越えて。
―――生きている中でいくつもの楽章を奏でて。響き、伝え合う。
生まれゆく優しさと踏み出す勇気を抱えるように。
燦々と降り注ぐ陽の中、命の尊さを称えるように。
穏やかで、静かな時間を泳ぐ落ち葉のように。
悴んだ指先を、互いの温もりで包み込むように。
……そうして、いつかやって来る少しだけの別離(わかれ)まで、こうして共に居られたらいい。
この平凡な日々を。誰よりも大切な人を、生涯かけて護り抜く。
いつまでも、いつまでも変わらず。
この温もりを抱えていこう。此処が、俺たちの場所。
「……あ、真一くん。お手紙来てました」
「手紙?」
「峰くんからデス。………結婚式、のご招待みたいデスよ?」
「結婚式―――」
―――次は俺達の番だな。……仲人頼むぜ、親友!
簡易結婚式の後、そそくさと近くに来て、ぽつりと言い残し去っていた、
……そう、俺の”親友”。
「そ…か、来たか」
「みゅ? 驚かないんですか?」
「何、驚いて欲しいのか?」
「むむ……真一くん、エスパーです」
「馬ぁ鹿。……さて、そろそろ飯作るか」
「むきゃ! 呪文料理ー!!」
ただ、ただひたすらに。
俺たちの行く道の末に、温かな光が降り注ぐのならば。
奏でていこう。
その時々で見つけた俺たちの”思い出”を。”温もり”を。かけがえのない、”今”を。
奏でていこう。
―――――この、生ある限り。
ほら、ご覧。
世界にはまだ知らない素敵な色が満ちあふれている。